巷の声
永井荷風
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)呼《よば》わり
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)晴れた日|樋竹売《とよだけうり》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「塞」の「土」に代えて「衣」、第3水準1−91−84]
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日々門巷を過る物売の声もおのずから時勢の推移を語っている。
下駄の歯入屋は鞭を携えて鼓を打つ。この響は久しく耳に馴れてしまったので、記憶は早くも模糊として其起源のいつごろであったかを詳にしない。明治四十一年の秋、わたくしが外国から帰って来た時、歯入屋は既に鞭で鼓を打ちながら牛込辺を歩いていたようである。
その頃ロシヤのパンパンと呼んで山の手の町を売り歩く行賈の声がわたくしには耳新しく聞きなされた。然しこれとても、東京の市街は広いので、わたくしが牛込辺で物めずらしく思った時には、他の町に在っては既に早く耳馴れたものになっていたかも図られない。
凡門巷を過行く行賈の声の定めがたきは、旦暮海潮の去来するにもたとえようか。その興るに当っては人の之に意を注ぐものなく、その漸く盛となるや耳に熟するのあまり、遂にその消去る時を知らしめない。服飾流行の変遷も亦門巷行賈の声にひとしい。
明治四十一年頃ロシヤのパンパンが耳新しく聞かれた時分、豆腐屋はまだ喇叭を吹かず黄銅製の振鐘を振鳴していたように、わたくしは記憶している。煙管羅宇竹のすげ替をする商人が、小さな車を曳き其上に据付けた釜の湯気でピイピイと汽笛を吹きならして来たのは、豆腐屋が振鐘をよして喇叭にしたよりも尚以前にあったらしい。天秤棒の両端に箱をつるし、ラウーイラウーイと呼んで歩いた旧い羅宇屋はいつかなくなって、新しい車に変ったのである。歯入屋も近年は大抵羅宇屋に似た車を曳いて来るようになった。
研屋は今でも折々天秤棒を肩にして、「鋏、庖丁、剃刀研ぎ」と呼《よば》わりながら門巷を過るが鋳掛屋の声はいつからとも知らず耳遠くなってしまった。是れ現代の家庭に在っては台所で使う鍋釜のたぐいも悉く廉価なる粗製品となり、破損すれば直様古きを棄てて新しきを購うようになった為めであろう。何物にかぎらず多年使い馴れた器物を愛惜して、幾度となく之を修繕しつつ使用していたような醇朴な風習が今は既に蕩然として後を断ったのも此の一事によって推知せられる。
明治三十年の春明治座で、先代の左団次が鋳掛松を演じた時、鋳掛屋の呼び歩く声を真似《まね》するのが至難であったので、まことの鋳掛屋を招いて書割の後から呼ばせたとか云う話を聞いたことがあった。
わが呱々の声を揚げた礫川の僻地は、わたくしの身に取っては何かにつけてなつかしい追憶の郷《さと》である。むかしのままなる姿をなした雪駄直しや鳥さしなどを目撃したのも、是皆金剛寺坂のほとりに在った旧宅の門外であった。雪駄直しは饅頭形の籐笠をかぶり其の紐を顎《あご》にかけて結んでいたので顔は見えず、笠の下から顎《あご》の先ばかりが突出ているのが何となく気味悪く見られた。着物の裾を※[#「塞」の「土」に代えて「衣」、第3水準1−91−84]《から》げて浅葱の股引をはき、筒袖の絆纏に、手甲《てっこう》をかけ、履物は草鞋をはかず草履か雪駄かをはいていた。道具を入れた笊《ざる》を肩先から巾広《はばひろ》の真田《さなだ》の紐で、小脇に提《さ》げ、デーイデーイと押し出すような太い声。それをば曇った日の暮方ちかい頃なぞに聞くと、何とも知れず気味のわるい心持がしたものである。
鳥さしの姿を見るのもその頃は人のいやがったものである。鳥さしは菅笠をかぶり、手甲脚絆がけで、草鞋をはき、腰に獲物を入れる籠を提げ、継竿になった長い黐竿《もちざお》を携え、路地といわず、人家の裏手といわず、どこへでも入り込んで物陰に身を潜め、雀の鳴声に似せた笛を吹きならし、雀を捕えて去るのである。
鳥さしは維新以前には雀を捕えて、幕府の飼養する鷹の脚を暖めさせるために、之を鷹匠の許へ持ち行くことを家の業となしていたのであるが、いつからともなく民間の風聞を探索して歩く「隠密《おんみつ》」であるとの噂が専らとなったので、江戸の町人は鳥さしの姿を見れば必不安の思をなしたというはなしである。わたくしが折々小石川の門巷を徘徊する鳥さしの姿を目にした時は、明治の世も既に十四五年を過ぎてはいたが、人は猶既往の風聞を説いて之を恐れ厭っていた。今の世に在っては、鳥さしはおろか、犬殺しや猫の皮剥ぎよりも更に残忍なる徒輩が徘徊するのを見ても、誰一人之を目して不祥の兆となすものがあろう。わたくし等が行燈の下に古老の伝説を聞き、其の人と同じようにい
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