高い石碑が立っていたのも、その辺であったと思う。団子屋の前を歩み過ぎて、堤から右手へ降りて行くと静かな人家の散在している町へ出る。
 西洋から帰って来てまだ間もない頃のことである。以前日本にいた頃、柳橋で親しくなった女から、わたくしは突然手紙を貰い、番地を尋ねて行くと、昔から妾宅《しょうたく》なぞの多くある堤下の静な町である。
 その頃はやっと三十を越すか越さない身の上の事。すぐさま女をさそい出して浅草公園へ夕飯をたべに行った。女は暫《しばら》くして曳舟通《ひきふねどおり》へ引移ったが、いずれにしても山の手から下町へ出て隅田の水を渡って逢いに行くのがいかにも詩のように美しく思われた。隅田の水はまだ濁らず悪臭も放たず清く澄んでいたので渡船《わたしぶね》で河を越す人の中には、舷《ふなべり》から河水で手を洗うものさえあった。
 曳舟まで出て見ると、場末の町つづきになって百花園《ひゃっかえん》も遠くはない。百花園から堀切《ほりきり》の菖蒲園《しょうぶえん》も近くなって来る。堀切のあたりは放水路の流がまだ出来ない時代には樹木の繁った間に小川が流れ込んでいた全くの田園で、菖蒲を植えた庭も四、五カ処
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