元八まん
永井荷風
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)砂町《すなまち》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)その日|深川《ふかがわ》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「螢」の「虫」に代えて「火」、第3水準1−87−61]
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偶然のよろこびは期待した喜びにまさることは、わたくしばかりではなく誰も皆そうであろう。
わたくしが砂町《すなまち》の南端に残っている元八幡宮《もとはちまんぐう》の古祠《こし》を枯蘆《かれあし》のなかにたずね当てたのは全く偶然であった。始めからこれを尋ねようと思立って杖を曳いたのではない。漫歩の途次、思いかけずその処に行き当ったので、不意のよろこびと、突然の印象とは思立って尋ねたよりも遥に深刻であった。しかもそれは冬の日の暮れかかった時で、目に入るものは蒼茫《そうぼう》たる暮烟《ぼえん》につつまれて判然としていなかったのも、印象の深かった所以《ゆえん》であろう。
或日わたくしは洲崎《すさき》から木場《きば》を歩みつくして、十間川《じっけんがわ》にかかった新しい橋をわたった。橋の欄《てすり》には豊砂橋《とよすなばし》としてあった。橋向《はしむこう》には広漠たる空地がひろがっていて、セメントのまだ生々しい一条《ひとすじ》の新開道路が、真直《まっすぐ》に走っていたが、行手には雲の影より外に目に入るものはない。わたくしはその日地図を持って来なかったので、この新道路はどこへ出るものやら更に見当がつかなかったのであるが、しかしその果《はて》はいずれ放水路の堤に行き当っているにちがいない。堤に出さえすれば位置も方角も自然にわかるはずだと考え、案内知らぬ道だけにかえって興味を覚え、目当もなく歩いて行くことにしたのである。
道路は市中《しちゅう》の昭和道路などよりも一層ひろいように思われ、両側には歩道が設けられていたが、ところどころ会社らしいセメント造《づくリ》の建物と亜鉛板《トタンいた》で囲った小工場が散在しているばかりで、人家もなく、人通りもない。道の左右にひろがっている空地は道路よりも地盤が低いので、歩いて行く中《うち》、突然横から吹きつける風に帽子を取られそうな時などは、道を行くのではなく、長い橋をわたっているような気がした。
道が爪先《つまさ》き上りになった。見れば鉄道線路の土手を越すのである。鉄道線路は二筋とも錆《さ》びているので、滅多に車の通ることもないらしい。また踏切の板も渡してはない。線路の上に立つと、見渡すかぎり、自分より高いものはないような気がして、四方の眺望は悉く眼下に横わっているが、しかし海や川が見えるでもなく、砂漠のような埋立地や空地《あきち》のところどころに汚い長屋建《ながやだて》の人家がごたごたに寄集ってはまた途絶えている光景は、何となく知らぬ国の村落を望むような心持である。遥のかなたに小名木川《おなぎがわ》の瓦斯《ガス》タンクらしいものが見え、また反対の方向には村落のような人家の尽きるあたりに、草も木もない黄色の岡が、孤島のように空地の上に突起しているのが見え、その麓をいかにも急設したらしい電車線路が走っている。と見れば、わたくしの立っている土手のすぐ下には、古板《ふるいた》で囲った小屋が二、三軒あって、スエータをきた男が裸馬に飼葉《かいば》を与えている。その側《そば》には朝鮮人の女が物を洗っている。わたくしは鉄道線路を越しながら、このあたりの光景を名づけて何というべきものかと考えた。かつて何もなかった処であるから、荒廃でもなく破壊でもない。放棄せられたまま顧みられない風景とでもいうのであろう……。
セメントの新道路は鉄道線路の向へ行っても、まだ行先が知れない。初めわたくしはほどなく荒川《あらかわ》放水路の土手に達するつもりであったので、少し疲労を覚えると共に、俄《にわか》に方角が知りたくなった。丁度道の片側に汚い長屋建の小家のつづきはじめたのを見て、その方の小路《こうじ》へ曲ると、忽ち電車の線路に行当った。通りがかりの人に道を尋ねると、左へ行けばやがて境川《さかいがわ》、右へ行けば直ぐに稲荷前《いなりまえ》の停留場へ出るのだというのである。
わたくしはこの辺の地理には明《あかる》くない。三十幾年のむかし、洲崎の遊里に留連《りゅうれん》したころ、大門前《おおもんまえ》から堀割に沿うて東の方《かた》へ行くとすぐに砂村の海辺《うみべ》に出るのだという事を聞いて、漫歩したことがあったが、今日記憶に残っているのは、蒹葭《けんか》の唯果も知らず生茂った間から白帆と鴎の飛ぶのを見た景色ばかりである。思うに、今日東陽公園先の運動場
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