銀座
永井荷風

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)銀座界隈《ぎんざかいわい》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)俳人|某子《なにがし》

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   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「口+愛」、第3水準1−15−23]

〔〕:アクセント分解された欧文をかこむ
(例)〔Cafe'〕
アクセント分解についての詳細は下記URLを参照してください
http://www.aozora.gr.jp/accent_separation.html
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 この一、二年何のかのと銀座界隈《ぎんざかいわい》を通る事が多くなった。知らず知らず自分は銀座近辺の種々なる方面の観察者になっていたのである。
 唯《ただ》不幸にして自分は現代の政治家と交《まじわ》らなかったためまだ一度もあの貸座敷然たる松本楼《まつもとろう》に登る機会がなかったが、しかし交際と称する浮世の義理は自分にも炎天にフロックコオトをつけさせ帝国ホテルや精養軒や交詢社《こうじゅんしゃ》の階段を昇降させた。有楽座《ゆうらくざ》帝国劇場歌舞伎座などを見物した帰りには必ず銀座のビイヤホオルに休んで最終の電車のなくなるのも構わず同じ見物帰りの友達と端《はて》しもなく劇評を戦わすのであった。上野の音楽学校に開かれる演奏会の切符を売る西洋の楽器店は、二軒とも人の知っている通り銀座通りにある。新しい美術品の展覧場《てんらんじょう》「吾楽《ごらく》」というものが建築されたのは八官町《はちかんちょう》の通りである。雑誌『三田文学』を発売する書肆《しょし》は築地《つきじ》の本願寺《ほんがんじ》に近い処にある。華美《はで》な浴衣《ゆかた》を着た女たちが大勢、殊に夜の十二時近くなってから、草花を買いに出るお地蔵《じぞう》さまの縁日《えんにち》は三十間堀《さんじっけんぼり》の河岸通《かしどおり》にある。
 逢うごとにいつもその悠然たる貴族的態度の美と洗錬された江戸風の性行とが、そぞろに蔵前《くらまえ》の旦那衆を想像せしむる我が敬愛する下町《したまち》の俳人|某子《なにがしし》の邸宅は、団十郎《だんじゅうろう》の旧宅とその広大なる庭園を隣り合せにしている。高い土塀《どべい》と深い植込とに電車の響も自《おの》ずと遠い嵐のように軟《やわら》げられてしまうこの家《や》の茶室に、自分は折曲げて坐る足の痛さをも厭《いと》わず、幾度《いくたび》か湯のたぎる茶釜の調《しらべ》を聞きながら礼儀のない現代に対する反感を休めさせた。
 建込《たてこ》んだ表通りの人家に遮《さえ》ぎられて、すぐ真向《まむかい》に立っている彼《か》の高い本願寺の屋根さえ、何処《どこ》にあるのか分らぬような静なこの辺《へん》の裏通には、正しい人たちの決して案内知らぬ横町《よこちょう》が幾筋もある。こういう横町の二階の欄干から、自分は或る雨上りの夏の夜《よ》に通り過る新内《しんない》を呼び止めて酔月情話《すいげつじょうわ》を語らせて喜んだ事がある。また梅が散る春寒《はるさむ》の昼過ぎ、摺硝子《すりガラス》の障子《しょうじ》を閉めきった座敷の中《なか》は黄昏《たそがれ》のように薄暗く、老妓ばかりが寄集った一中節《いっちゅうぶし》のさらいの会に、自分は光沢《つや》のない古びた音調に、ともすれば疲れがちなる哀傷を味った事もあった。
 しかしまた自分の不幸なるコスモポリチズムは、自分をしてそのヴェランダの外《そと》なる植込の間から、水蒸気の多い暖な冬の夜《よ》などは、夜《よる》の水と夜の月島《つきしま》と夜の船の影とが殊更美しく見えるメトロポオル・ホテルの食堂をも忘れさせない。世界の如何《いか》なる片隅をも我家《わがや》のように楽しく談笑している外国人の中に交って、自分ばかりは唯独り心淋しく傾けるキァンチの一壜《ひとびん》に年を追うて漸く消えかかる遠い国の思出を呼び戻す事もあった。
 銀座界隈には何という事なく凡《すべ》ての新しいものと古いものとがある。一国の首都がその権勢と富貴《ふうき》とに自《おのず》から蒐集《しゅうしゅう》する凡ての物は、皆ここに陳列せられてある。われわれは新しい流行の帽子を買うためにも、遠い国から来た葡萄酒を買うためにも、無論この銀座へ来ねばならぬが、それと同時に、有楽座などで聞く事を好まない「昔」の歌をば、なりたけ「昔」らしい周囲の中《うち》に聞き味おうとすればやはりこの辺《へん》の特種な限られた場所を択ばなければならない。

 自分は折々|天下堂《てんがどう》の三階の屋根裏に上《あが》って都会の眺望を楽しんだ。山崎洋服店の裁縫師でもなく、天賞堂《てんしょうどう》の店員でもないわれわれが、銀座界隈の鳥瞰図《ちょらかんず》を楽《たのし》もうとすれば、この天下堂の梯子段《はしごだん》を上《あが》るのが一番|軽便《けいべん》な手段である。茲《ここ》まで高く上《あが》って見ると、東京の市街も下にいて見るほどに汚らしくはない。十月頃の晴れた空の下《した》に一望|尽《つく》る処なき瓦屋根の海を見れば、やたらに突立っている電柱の丸太の浅間しさに呆《あき》れながら、とにかく東京は大きな都会であるという事を感じ得るのである。
 人家の屋根の上をば山手線《やまのてせん》の電車が通る。それを越して霞《かすみ》ヶ|関《せき》、日比谷《ひびや》、丸《まる》の内《うち》を見晴す景色と、芝公園《しばこうえん》の森に対して品川湾《しながわわん》の一部と、また眼の下なる汐留《しおどめ》の堀割《ほりわり》から引続いて、お浜御殿《はまごてん》の深い木立《こだち》と城門の白壁を望む景色とは、季節や時間の工合《ぐあい》によっては、随分見飽きないほどに美しい事がある。
 遠くの眺望から眼を転じて、直ぐ真下《まっした》の街を見下《みおろ》すと、銀座の表通りと並行して、幾筋かの裏町は高さの揃った屋根と屋根との間を真直に貫き走っている。どの家にも必ず付いている物干台《ものほしだい》が、小《ちいさ》な菓子折でも並べたように見え、干してある赤い布《きれ》や並べた鉢物の緑《みど》りが、光線の軟《やわらか》な薄曇の昼過ぎなどには、汚れた屋根と壁との間に驚くほど鮮かな色彩を輝かす。物干台から家《うち》の中に這入《はい》るべき窓の障子《しょうじ》が開《あ》いている折には、自分は自由に二階の座敷では人が何をしているかを見透《みすか》す。女が肩肌抜《かたはだぬ》ぎで化粧をしている様やら、狭い勝手口の溝板《どぶいた》の上で行水《ぎょうずい》を使っているさままでを、すっかり見下してしまう事がある。尤《もっと》も日本の女が外から見える処で行水をつかうのは、『|阿菊さん《マダムクリザンテエム》』の著者を驚喜せしめた大事件であるが、これはわざわざ天下堂の屋根裏に登らずとも、自分は山の手の垣根道で度々|出遇《であ》ってびっくりしているのである。この事を進めていえば、これまで種々なる方面の人から論じ出された日本の家屋と国民性の問題を繰返すに過ぎまい。
 われわれの生活は遠からず西洋のように、殊に亜米利加《アメリカ》の都会のように変化するものたる事は誰《た》が眼にも直ちに想像される事である。然らばこの問題を逆にして試《こころみ》に東京の外観が遠からずして全く改革された暁《あかつき》には、如何なる方面、如何なる隠れた処に、旧日本の旧態が残されるかを想像して見るのも、皮肉な観察者には興味のないことではあるまい。実例は帝国劇場の建築だけが純西洋風に出来上りながら、いつの間にかその大理石の柱のかげには旧芝居の名《なご》残りなる簪屋《かんざしや》だの飲食店などが発生繁殖して、遂に厳粛なる劇場の体面を保たせないようにしてしまった。銀座の商店の改良と銀座の街の敷石とは、将来如何なる進化の道によって、浴衣《ゆかた》に兵児帯《へこおび》をしめた夕凉《ゆうすずみ》の人の姿と、唐傘《からかさ》に高足駄《たかあしだ》を穿《は》いた通行人との調和を取るに至るであろうか。交詢社《こうじゅんしゃ》の広間に行くと、希臘風《ギリシヤふう》の人物を描いた「|神の森《ポアサクレエ》」の壁画の下《もと》に、五《いつ》ツ紋《もん》の紳士や替《かわ》り地《じ》のフロックコオトを着た紳士が幾組となく対座して、囲碁仙集《いごせんしゅう》をやっている。高い金箔《きんぱく》の天井にパチリパチリと響き渡る碁石の音は、廊下を隔てた向うの室《へや》から聞えて来る玉突のキュウの音に交《まじ》わる。初めてこの光景に接した時自分は無論いうべからざる奇異なる感に打たれた。そしてこの奇異なる感は、如何なる理由によって呼起されたかを深く考え味わねばならなかった。数寄《すき》を凝《こら》した純江戸式の料理屋の小座敷には、活版屋の仕事場と同じように白い笠のついた電燈が天井からぶらさがっているばかりか遂には電気仕掛けの扇風器までが輸入された。要するに現代の生活においては凡《すべ》ての固有純粋なるものは、東西の差別なく、互に噛み合い壊し合いしているのである。異人種間の混血児は特別なる注意の下に養育されない限り、その性情は概して両人種の欠点のみを遺伝するものだというが、日本現代の生活は正《まさ》しくかくの如きものであろう。
 銀座界隈はいうまでもなく日本中で最もハイカラな場所であるが、しかしここに一層皮肉な贅沢屋があって、もし西洋そのままの西洋料理を味おうとしたなら銀座界隈の如何なる西洋料理屋もその目的には不適当なる事を発見するであろう。銀座の文明と横浜のホテルとの間には歴然たる区別がある。そして横浜と印度《インド》の殖民地と西洋との間にはまた梯子昇《はしごのぼ》りに階段がついている。
 ここにおいて、或る人は、帝国ホテルの西洋料理よりもむしろ露店の立ち喰いにトンカツの※[#「口+愛」、第3水準1−15−23]《おくび》をかぎたいといった。露店で食《くら》う豚の肉の油揚げは、既に西洋趣味を脱却して、しかも従来の天麩羅《てんぷら》と抵触《ていしょく》する事なく、更に別種の新しきものになり得ているからだ。カステラや鴨南蛮《かもなんばん》が長崎を経て内地に進み入り、遂に渾然《こんぜん》たる日本的のものになったと同一の実例であろう。
 自分はいつも人力車《じんりきしゃ》と牛鍋《ぎゅうなべ》とを、明治時代が西洋から輸入して作ったものの中《うち》で一番成功したものと信じている。敢《あえ》て時間の経過が今日の吾人《ごじん》をして人力車と牛鍋とに反感を抱かしめないのでは決してない。牛鍋の妙味は「鍋」という従来の古い形式の中《うち》に「牛肉」という新しい内容を収めさせた処にある。人力車は玩具《おもちゃ》のように小《ちいさ》く、何処となく滑稽な形をなし最初から日本の生活に適当し調和するように発明されたものである。この二つはそのままの輸入でもなく無意味な模倣でもない。少くとも発明という賛辞に価するだけに発明者の苦心と創造力とが現われている。即ち国民性を通過して然る後に現れ出たものである。
 こういう点から見て、自分は維新前後における西洋文明の輸入には、甚だ敬服すべきものが多いように思っている。徳川幕府が仏蘭西《フランス》の士官を招聘《しょうへい》して練習させた歩兵の服装――陣笠《じんがさ》に筒袖《つつそで》の打割羽織《ぶっさきばおり》、それに昔のままの大小をさした服装《いでたち》は、純粋の洋服となった今日の軍服よりも、胴が長く足の曲った日本人には遥かに能《よ》く適当していた。洋装の軍服を着れば如何なる名将といえども、威儀風采において日本人は到底西洋の下士官《スウゾフ》にも肩を比する事は出来ない。異《ちが》った人種はよろしく、その容貌体格習慣挙動の凡てを鑑《かんが》みて、一様には論じられない特種のものを造り出すだけの苦心と勇気とを要する。自分は上野《うえの》の戦争の絵を見る度《た》びに、官軍の冠《かむ》った紅白の毛甲《けかぶと》を美しいものだと思い、そして
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