iポレオン帝政当時の胸甲騎兵《きょうこうきへい》の甲《かぶと》を連想する。

 銀座の表通りを去って、いわゆる金春《こんぱる》の横町《よこちょう》を歩み、両側ともに今では古びて薄暗くなった煉瓦造《れんがづく》りの長屋を見ると、自分はやはり明治初年における西洋文明輸入の当時を懐しく思返すのである。説明するまでもなく金春の煉瓦造りは、土蔵のように壁塗りになっていて、赤い煉瓦の生地《きじ》を露出させてはいない。家の軒はいずれも長く突き出《い》で円《まる》い柱に支えられている。今日ではこのアアチの下をば無用の空地《くうち》にして置くだけの余裕がなくって、戸々《ここ》勝手《かって》にこれを改造しあるいは破壊してしまった。しかし当初この煉瓦造を経営した建築者の理想は家並《やな》みの高さを一致させた上に、家ごとの軒の半円形と円柱との列によって、丁度リボリの街路を見るように、美しいアルカアドの眺めを作らせるつもりであったに違いない。二、三十年|前《ぜん》の風流才子は南国風なあの石の柱と軒の弓形《アーチ》とがその蔭なる江戸|生粋《きっすい》の格子戸《こうしど》と御神燈《ごしんとう》とに対して、如何に不思議な新しい調和を作り出したかを必ず知っていた事であろう。
 明治の初年は一方において西洋文明を丁寧に輸入し綺麗に模倣し正直に工風《くふう》を凝《こら》した時代である。と同時に、一方においては、徳川幕府の圧迫を脱した江戸芸術の残りの花が、目覚《めざま》しくも一時に二度目の春を見せた時代である。劇壇において芝翫《しかん》、彦三郎《ひこさぶろう》、田之助《たのすけ》の名を挙げ得ると共に文学には黙阿弥《もくあみ》、魯文《ろぶん》、柳北《りゅうほく》の如き才人が現れ、画界には暁斎《ぎょうさい》や芳年《よしとし》の名が轟《とどろ》き渡った。境川《さかいがわ》や陣幕《じんまく》の如き相撲《すもう》はその後《ご》には一人もない。円朝《えんちょう》の後《のち》に円朝は出なかった。吉原《よしわら》は大江戸の昔よりも更に一層の繁栄を極め、金瓶大黒《きんべいだいこく》の三名妓の噂が一世《いっせ》の語り草となった位である。
 両国橋には不朽なる浮世絵の背景がある。柳橋《やなぎばし》は動しがたい伝説の権威を背負《せお》っている。それに対して自分は艶《なまめ》かしい意味においてしん橋[#「しん橋」に傍点]の名を思出す時には、いつも明治の初年|返咲《かえりざ》きした第二の江戸を追想せねばならぬ。無論、実際よりもなお麗《うるわ》しくなお立派なものにして憬慕《けいぼ》するのである。

 現代の日本ほど時間の早く経過する国が世界中にあろうか。今過ぎ去ったばかりの昨日《きのう》の事をも全く異《ちが》った時代のように回想しなければならぬ事が沢山にある。有楽座を日本唯一の新しい西洋式の劇場として眺めたのも僅に二、三年間の事に過ぎなかった。われわれが新橋の停車場《ていしゃじょう》を別れの場所、出発の場所として描写するのも、また僅々四、五年間の事であろう。
 今では日吉町《ひよしちょう》にプランタンが出来たし、尾張町《おわりちょう》の角《かど》にはカフェエ・ギンザが出来かかっている。また若い文学者間には有名なメイゾン・コオノスが小網町《こあみちょう》の河岸通《かしどお》りを去って、銀座附近に出て来るのも近い中《うち》だとかいう噂がある。しかしそういう適当な休み場所がまだ出来なかった去年頃まで、自分は友達を待ち合わしたり、あるいは散歩の疲れた足を休めたり、または単に往来《ゆきき》の人の混雑を眺めるためには、新橋停車場内の待合所を択《えら》ぶがよいと思っていた。
 その頃には銀座界隈には、己にカフェエや喫茶店やビイヤホオルや新聞縦覧所などいう名前をつけた飲食店は幾軒もあった。けれども、それらはいずれも自分の目的には適しない。一時間ばかりも足を休めて友達とゆっくり話をしようとするには、これまでの習慣で、非常に多く物を食わねばならぬ。ビイル一杯が長くて十五分間、その店のお客たる資格を作るものとすれば、一時間に対して飲めない口にもなお四杯の満《まん》を引かねばならない。然らずば何となく気が急《せ》いて、出て行けがしにされるような僻《ひが》みが起って、どうしても長く腰を落ち付けている事が出来ない。
 これに反して停車場内の待合所は、最も自由で最も居心地よく、聊《いささ》かの気兼《きが》ねもいらない無類上等の 〔Cafe'〕《カフェエ》 である。耳の遠い髪の臭い薄ぼんやりした女《おんな》ボオイに、義理一遍のビイルや紅茶を命ずる面倒もなく、一円札に対する剰銭《つりせん》を五分もかかって持《もつ》て来るのに気をいら立てる必要もなく、這入《はい》りたい時に勝手に這入って、出たい時には勝手に出られる。自分は山の手の書斎の沈静した空気が、時には余りに切《せつ》なく自分に対して、休まずに勉強しろ、早く立派なものを書け、むつかしい本を読めというように、心を鞭打つ如く感じさせる折には、なりたけ読みやすい本を手にして、この待合所の大きな皮張《かわばり》の椅子《いす》に腰をかけるのであった。冬には暖い火が焚《た》いてある。夜《よる》は明い燈火《ともしび》が輝いている。そしてこの広い一室の中《なか》にはあらゆる階級の男女が、時としてはその波瀾ある生涯の一端を傍観させてくれる事すらある。Henri《アンリイ》 Bordeaux《ボルドオ》 という人の或る旅行記の序文に、手荷物を停車場に預けて置いたまま、汽車の汽笛の聞える附近の宿屋に寝泊りして、毎日の食事さえも停車場内の料理屋で準《ととの》え、何時《なんどき》にても直様《すぐさま》出発し得られるような境遇に身を置きながら、一向に巴里《パリー》を離れず、かえって旅人のような心持で巴里の町々を彷徨《ほうこう》している男の話が書いてある。新橋の待合所にぼんやり腰をかけて、急《いそが》しそうな下駄の響と鋭い汽笛の声を聞いていると、いながらにして旅に出たような、自由な淋しい好《い》い心持がする。上田敏《うえだびん》先生もいつぞや上京された時自分に向って、京都の住《すま》いもいわば旅である。東京の宿も今では旅である。こうして歩いているのは好い心持だといわれた事がある。
 自分は動いている生活の物音の中《なか》に、淋しい心持を漂《ただよ》わせるため、停車場の待合室に腰をかける機会の多い事を望んでいる。何のために茲《ここ》に来るのかと駅夫に訊問された時の用意にと自分は見送りの入場券か品川行の切符を無益に買い込む事を辞さないのである。

 再びいう日本の十年間は西洋の一世紀にも相当する。三十間堀の河岸通《かしどおり》には昔の船宿が二、三軒残っている。自分はそれらの家の広い店先の障子を見ると、母がまだ娘であった時分この辺《へん》から猿若町《さるわかちょう》の芝居見物に行くには、猪牙船《ちょきぶね》に重詰《じゅうづめ》の食事まで用意して、堀割から堀割をつたわって行ったとかいわれた話をば、いかにも遠い時代の夢物語のように思い返す。自分がそもそも最初に深川の方面へ出掛けて行ったのもやはりこの汐留《しおどめ》の石橋《いしばし》の下から出発する小《ちいさ》な石油の蒸汽船に乗ったのであるが、それすら今では既に既に消滅してしまった時代の逸話となった。
 銀座と銀座の界隈とはこれから先も一日一日と変って行くであろう。丁度活動写真を見詰《みつ》める子供のように、自分は休みなく変って行く時勢の絵巻物をば眼の痛《いたく》なるまで見詰めていたい。
[#地から2字上げ]明治四十四年七月



底本:「荷風随筆集(上)」岩波文庫、岩波書店
   1986(昭和61)年9月16日第1刷発行
   2006(平成18)年11月6日第27刷発行
底本の親本:「荷風随筆 一〜五」岩波書店
   1981(昭和56)年11月〜1982(昭和57)年3月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:門田裕志
校正:阿部哲也
2010年4月15日作成
青空文庫作成ファイル:
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