海洋の旅
永井荷風
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)昨日《きのふ》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)泣きたい程|切《せつ》なく
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#地から6字上げ]〔Homme libre, toujours tu che'riras la mer.〕
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)いろ/\
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
〔〕:アクセント分解された欧文をかこむ
(例)〔Homme libre, toujours tu che'riras la mer.〕
アクセント分解についての詳細は下記URLを参照してください
http://www.aozora.gr.jp/accent_separation.html
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[#地から6字上げ]〔Homme libre, toujours tu che'riras la mer.〕
[#地から2字上げ]Baudelaire.
[#地から6字上げ]自由の人よ。君は常に海を愛せん。
[#地から2字上げ]ボオドレエル。
一
昨日《きのふ》長崎から帰つた。八月の中旬横浜から上海《シヤンハイ》行の汽船に乗つて、神戸門司を経て長崎に上陸し、更に山を越えて茂木《もぎ》の港に出《い》で、入海《いりうみ》を横切つて島原半島に遊んだ後、帰り道は同じく上海より帰航の便船をまつて、同じ海と同じ港を過ぎて横浜に上陸したのである。二週日の間《あひだ》自分は海ばかりを見た。島と岬と岩と船と雲ばかりを見た。今だに強い海洋の香気と色彩とが腸《はらわた》まで浸み渡つてゐるやうな心持がする。
自分はどういふ理由から夏の旅行の目的地を、殊更暑いと云はれた南方の長崎に択んだのか自分ながらも少しくその解釈に苦しむのである。自分は唯《たゞ》広々した大きな景色が見たかつた。自分は出来るだけ遠く自分の住んでゐる世界から離れたやうな心持になりたかつた。人間から遠ざかりたかつた。この目的のためには、汽車で行く内地の山間よりも、船を以て海洋に泛《うか》ぶに如《し》くはない。海は実に大きく自由である。自分は東京の市内に於ても、隅田川の渡船《わたしぶね》に乗つてさへ、岸を離れて水上に泛べば身体《しんたい》の動揺と共に何とも云へぬ快感を覚え、陸地の世界とは全く絶縁してしまつたやうな慰安と寂寞とを感ずる。
この慰安と寂寞を味《あぢは》はんが為めに、自分は目的なく横浜の埠頭を離れて海に漂つたのである。夏の大空に輝く強い日光、奇怪なる雲の峯、洋々たる波浪、悲壮なる帆影《はんえい》、凡《すべ》て自由にして広大なる此等の海洋的風景は、如何に自分の心を快活にしてくれたであらう。あゝ此の二三年間、自分はあまりに烈しく、社会的並びに芸術的の圧迫に苦悩し過ぎた。人間が誰でも持つて居べき純朴温厚なる本来の感情さへ、自分は日に日に消滅して行くやうな情ない心持がしてゐた。自分は衰弱した身心の健康を、力ある海洋の空気によつて恢復させ、最少《もすこ》し軟かな暖《あたゝか》な感情を以て、自分と自分の周囲を顧ることが出来るやうになりたいと思つた。
内地に於ける名所古蹟の遊覧には歴史的賞讃の義務を強ひられる虞《おそれ》がある。海洋には純然たる色彩の美があるばかりである。海は飽くまで自由である。自由にして大きな海を見れば、陸上の都会に於て、自分の心を激昂させた凡ての論争も、実に小さなつまらないものとなつて、水平線の下に沈み消えてしまふではないか。新しい劇場や新しい橋梁の建築に対して、或は各処の劇場に演じられる突飛なる新興芸術の試みに対して経験した憤怒の如きは、全く我ながら馬鹿らしい事だと心付く。海洋に於ける大きな自然の美は陸上のつまらない小さな芸術の論争などを顧みさせる余裕を許さない。
自分は海に沈むすさまじい夕陽の色に酔つた。岬の岩角を噛む恐しい波の牙を見た。緑色した島の上に立つ真白な灯台を見た。山の裾に休息してゐる哀れな漁村の屋根を見た。暗夜に舷《ふなばた》を打つ不知火《しらぬひ》の光を見た。水夫が叩く悲しい夜半《やはん》の鐘の音《ね》を聞いた。異《ちが》つた人種の旅客を見た。自分の祖国に対するそれ等の人々の批評をも聞いた。港に這入《はい》つては活気ある波止場の生活を見た。新しいさま/″\の物音を聞いた。いろ/\な船といろ/\な国の旗を見た。そして自分の見たり聞いたりした其れ等の物は悉《こと/″\》く自分の心に向つて、この世の生存のいかに愉快であるかを歌つて聞かせるものゝやうに思はれた。夜半人の寝静《ねしづま》つた時、唯一人《ただひとり》舷に倚《よ》つて水を凝視すれば「死」はいつも自分の目前《めのまへ》に広がつてゐる事を自覚するにつけ、自分は美しい星の下《した》なるこの人生に対して、殆ど泣きたい程|切《せつ》なく鋭い愛着の念に迫まられるのである。
波浪を蹴つて進んで行く汽船の機関の一呼吸《ひとこきふ》する響毎《ひびきごと》に、自分の心は其身《そのみ》と共に遠い未知の境《さかひ》に運ばれて行く。昨日も海、今日もまた海、そして四日目の朝に、自分は絵のやうに美しく細長い入江の奥なる長崎に着いたのである。
二
長崎は京都と同じやうに、極めて綺麗な、物静かな都であつた。石道《いしみち》と土塀《どべい》と古寺《ふるでら》と墓地と大木の多い街であつた。花の多い街であつた。樹木の葉の色は東京などよりも一層鮮かに濃いやうに見えた。東京の蝉とは全く違つた鳴声《なきごゑ》の蝉が、夕立の降つてくるやうに市中《しちゆう》到る所の樹木に鳴いてゐた。果物を売り歩く女の呼声が湿気《しつき》のない晴れ渡つた炎天の下《もと》に、長崎は日本からも遠く、支那からも遠く、切支丹の本国からも遠い/\処である事を、沁々《しみ/″\》と旅客の心に感じさせるやうに響く。この云ひがたい遠国的の情調は、マニラから避暑に来る米国の軍人が騒いで遊ぶ丸山遊廓の絃歌の声、或はまた長崎の街々の端《はづ》れにある古寺の鐘の音《ね》によつて、一層深く味《あぢは》ひ得られるのであつた。
自分は未だ嘗て長崎に於けるが如く、軟かな美しい鐘の音を聞いたことは無い。上陸した最初の日の夕方、乃《すなは》ち長崎の夕凪《ゆうなぎ》とか称《とな》へて、烈しい炎暑の一日《いちじつ》の後《あと》、入日と共に空気は死するが如くに沈静し、木葉《このは》一枚動かぬやうな森閑とした黄昏《たそがれ》、自分は海岸から堀割をつたはつて、外国人向きの商店ばかり並んだ一条の町を過ぎ、丸山に接する大徳寺《だいとくじ》といふ高台の休茶屋から、暮れて行く港の景色を眺めてゐた時であつた。何処《どこ》からとも知れぬが、確かに二三箇所から一度に撞出《つきだ》される梵鐘《ぼんしよう》の響は、長崎の町と入海《いりうみ》とを丁度|円形劇場《アンフイテアトル》のやうに円く囲む美しい丘陵に遮られて、夕凪の沈静した空気の中《なか》に如何にも長閑《のどか》に軟かく、そして何時までも消えずに一つ処に漂つてゐる。最初に撞出された響が長く空中に漂つてゐる間に新しく撞出される次の響が後から/\と追ひかけて来て互に相縺《あひもつ》れ合ふのである。縺れ合ふ鐘の余韻は、早やたつぷりと暮れ果てた灯火の港を見下《みおろ》す自分の心に向つて、お前は何故《なぜ》もつと早く此処へ来なかつたのだ。東京はもうお前の住むべき処ではない。早く俗縁を断《た》つて、過去の繁華を夢に見つゝ心地よく衰頽の平和に眠つて行く此の長崎に来い………と諭《さと》してくれるやうにも思はれた。
敢《あへ》て鐘の音《ね》のみではない。到る処散歩に適する市街の光景は皆自分に向つて、日本中でお前が身を隠すに適当な処は支那でもなく日本でもなく西洋でもない、此《この》特別の長崎ばかりだぞと囁くやうに思はれた。幾ヶ所とも知れぬ長崎の古い寺々は蔦《つた》まつはる其の土塀と磨減《すりへ》つた石段と傾いた楼門の形とに云ひ知れぬ懐しさを示すばかりで、奈良京都の寺院の如くに過去の権威の圧迫を感じさせない。曲学阿世の学者が無理やりに過去の日本歴史から造り出した教訓的臭味を感じさせない。若《も》し此地《このち》に過去の背景があるとすればそれは山の手なる天主堂の壁にかけてある油絵が示してゐるやうな、悲壮なる宗教迫害史の一節か、然らずば鎖国の為めに頓挫した日本民族雄飛の夢のはかない名残りのみである。痛嘆すべきこの二つの歴史は、畿内の山河《さんが》がいつも自分に向つて消極的教訓を語るに反して、長崎の風景に対して一種名状しがたき憤恨《ふんこん》と神秘の色調を帯びさせてゐるやうに思はれる。今では同じく京都のやうに悲しく廃《すた》れ果てゝはゐるものゝ、猶《なほ》絶えず海と船とによつて外国の空気が通《かよ》つてゐるが為めか京都ほど暗くはない。狭くはない。支那風に彩色した軽舟《サンパン》は真青《まつさお》な海の上と灰色した堀割の石垣と石橋の下をば絶えず動いてゐる。西洋人と支那人と内地人の子供は青物市場のほとりに入乱れて遊んでゐる。稲佐《いなさ》と丸山の女は日本語とロシヤ語と英語とで一夜《いちや》の恋を語つてゐる。海岸通の酒場では黒奴《ネグロ》が弾くピアノにつれてポルトガルの女が踊つてゐる。いつも石の階段と敷石の坂道を上《のぼ》つて行く町々の人家は皆古びて何処となく頑丈で、而《しか》も小綺麗である。道路は極めて狭いけれども、吾々が住む東京の山の手のやうに軍人の馬と荷車の馬とが荒れ廻つてゐず、又下町の大通のやうに年《ねん》が年中《ねんぢゆう》、水道と瓦斯《ガス》と溝掃除《どぶさうぢ》で、掘り返されてもゐないので、全く歩くべき道として、静に心安く歩くことが出来る。車夫や物売りの相貌《かほつき》も非常に柔和であつて、東京中を横行する彼の恐しい工夫や職工や土方のやうなものは至つて鮮《すく》ない。
自分はこれにつけても進取と云ひ新興と云ふが如き機運の如何に残忍なものであるか。同時に静止と満足と衰頽との如何に懐しいものであるかを感ずる。
嘗て北米|西海岸《せいかいがん》の新開の都市に滞在してゐた時、自分は如何に悲惨な生涯を送つたかを思ひ返す。それは丁度|今日《こんにち》の東京に住んでゐると同じやうな心持であつた。限りなく騰貴する物価は住民に向つて常に粗悪なる物品と食物とを供給せしめ、足らぬ勝ちなる生活は次第に野卑となつて礼儀交際の美観を許さず、目的を第一とした暴悪な行動は手段の如何を問はしめない。然もかう云ふ社会に限つて偏狭なる道徳的先入の判断が過敏であつて、団体の運動はいつも個人の私行にまで立ち入らうと迫る。自分は人種的迫害の事情の下《もと》に日本人の社会にも又米国人の社会にも接近する事が出来ず、唯《た》だ独り遣瀬《やるせ》のない思ひを抱《いだ》いて、新大陸の海岸一帯を蔽ふ松の深林ばかりを散歩してゐた。自然が如何に公平で如何に温いものであるかを心の底から会得したやうに感じたのも此の時が初めてゞあつた。
横浜を出て四日間の航海と、幾百里離れた長崎の風景とが、東京を忌む自分の心にいかなる慰安を与へたかはこゝに繰返して云ふ必要がない。自分は帰りの便船を待つべき三日間をば尚少《もすこ》し遠く尚少し離れた処に送りたいと思ひ、ホテルの案内書をたよりにして島原の小浜《をばま》と云ふ海岸に赴いたのである。こゝは人も知る通り、上海やマニラや浦塩《うらじほ》あたりから、日光箱根などへ行く事の出来ない種類の西洋人が、日本の風景を唯一の慰藉として遊びに来る土地である。
自分は其れ等の外客と小蒸汽に乗つて島原の入海を越え海岸の小さな木造《きづく》りのホテルに宿を取つた。
三
白い蚊帳《かや》のついた寝台《ねだい》と籐編《とうあみ》の椅子と鏡台と洗面器の外には何もない質素な一室である。壁には画額《ゑがく》もなく、窓には木綿更紗《もめんさらさ》の窓掛《まどかけ》が下げてあるばかり。然し自分はどれほどこの無装飾の淋
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