オい室《へや》を喜んだか知れない。東京の帝国ホテルの食堂を飾つてゐるやうなサムライ商会式の西洋趣味に驚かされる恐れもなく、または日本風の宿屋の床の間や鴨居に俗気紛々たる官吏政治家等の筆蹟を見て不快を感ずるやうな事もなくて済むからである。装飾のない室の外は葭簀《よしず》の日避《ひよけ》をした外縁《ヴエランダ》になつてゐて、広々した海湾の景色は寝台の上に横《よこた》はりながら一目《ひとめ》に見晴《みはら》すことが出来る。強い日光に照りつけられた海水の反映が室の壁と天井とに絶間《たえま》なく波紋の揺《うご》く影を描《ゑが》いてゐる。窓の上に巣を作つてゐる燕が、幾羽となく海の方へ飛んで行つては海草《うみくさ》のちぎれを喙《ついば》んで来る。自分はこの可愛らしい燕と思ふさま照り輝く夏の日光と入海の彼方に延長する優しい丘陵とに対して、何といふ事もなくダンヌンチオ作品中の風景に接する思をなした。これと共に南の方へ漂つて来たといふ心持が一層深くなるのを覚えた。
夏の昼過ぎの明《あかる》い寂寞《せきばく》は、遠い階下の一室から聞える玉突の音と折々《をり/\》起る人々の笑ひ声、森閑とした白昼のホテルの廊下を歩くボオイの足音、時々にママア/\と云つて母親を呼ぶ子供の声に乱されるばかり。然し日本の居室と違つて確然と区別のある西洋間の心安さは、襖の隙間から隣の部屋の乱雑を見ることもなく、枕元にひゞく上草履《うはざうり》の音もなく、自分は全く隔離されたる個人として外縁《ヴエランダ》の上なる長椅子に身を横《よこた》へ、恣《ほしいまゝ》なる空想に耽けることが出来た。
自分は旅のつかれに眠気《ねむけ》を催しながら、あまりの淋しさ静けさに却《かへつ》て神経を刺戟せられ、うつら/\と、無い事をも有るやうに、有る事をも無いものゝやうに、止め度もなく、いろ/\と不合理な事ばかりを考へ始めるのである。誰やらの詩で読んだ――気狂《きちが》ひになつた詩人が夜半《やはん》の月光に海の底から現れ出る人魚の姫を抱《いだ》き致死《ちし》の快感に斃れてしまつたのも、思ふに斯《か》う云ふ忘れられた美しい海辺《うみべ》の事であらう。人のゐない宿屋の一室に置き捨てられた鏡台の曳出《ひきだ》しからは無名の音楽者の書きかけた麗しい未成《みせい》の楽譜のきれはしが発見せられはしまいか。或は自殺未遂者の置き忘れて行つた剃刀《かみそり》が出はしまいか。
自分は遠いこの島原の海のほとり、西洋人ばかりしか泊《とまつ》てゐない宿屋の一室に人知れず自殺したらどうであらう。こんな事を考へて我ながら戦慄した。斯《かく》の如き戦慄の快感を追究するのは敢《あへ》て自分ばかりではあるまい。小説的《ロマンチツク》と云ふ病気に罹《かゝ》つたものは皆さうであらう。自分は幼《ちひさ》い時|乳母《うば》から、或お姫様がどう云ふ間違からか絹針を一本お腹《なか》の中へ呑込んでしまつた。お医者様も薬もどうする事も出来ない。絹針は三日三晩悲鳴を上げて泣きつゞけたお姫様の身体中《からだぢゆう》をば血の流れと共に循《めぐ》り巡《めぐ》つて、とう/\心の臓を突破つて、お姫様を殺してしまつたとか云ふ話を聞いた。そして自分も万が一さう云ふ危難に遭遇したらどうしやう、と思ふと、激甚な恐怖の念は一種不可思議な磁石力《じしやくりよく》を以て人を魅するものである。自分は何となく自ら進んで其の危難に近《ちかづ》きたいやうな夢現《ゆめうつゝ》の心持になつた。石筆《せきひつ》や鉛筆なぞを口の端《はた》まで持つて行つては、自分から驚いて泣き出した事があつた。古井戸の真暗な底を差覗《さしのぞ》く時も、自分は同じやうな「死」の催眠術に引きかゝる。山の頂から谷底を望んだり滝壼を見たりしても同じである。
日頃あるにかひなき自分をば慰め劬《いたは》り、教へ諭《さと》してくれる凡《すべ》ての親しい人達から遠く離れて全く気儘になつた一身をば偶然《たま/\》かうした静な淋しい境《さかひ》に休息させると、それ等の恐しい空想は鴉片《あへん》の夢かとばかり、云ひ知れぬ麻痺の快感を肉心《にくしん》に伝へるのであつた。
室《へや》の戸を軽《かる》く叩く物音に自分は喫驚《びつくり》して夢から覚めた。ホテルのボオイが早や石油のランプを持ち運んで来たのである。
四
自分はぢつとランプの火影《ほかげ》を眺めた。外には夕栄《ゆふばえ》に染められた空と入江とが次第に蒼白く黄昏《たそが》れて行く。室《へや》の中には石油のランプがいかにも軟な悲しい光を投げ始める。自分はあまりの懐しさに此の旅館のランプをも島原の風景と同じやうに熱心に讃美して長く記憶に留めて置きたいと思つた。都会の生活は自分の書斎と友達の住宅を初め到る処|工場《こうぢやう》のやうに天井からぶら下つてゐる電気灯の光ばかりにしてしまつた。然るに今突然自分は此の黄色な鈍い石油ランプの火影に接して何とも云へぬ不思議な慰安を覚えた。世の中から全く隠退し得たやうな悲しいあきらめ[#「あきらめ」に傍点]の平和を感じた。同時に、まだ電灯が普及しない時分、かゝる薄暗い灯火の光をたよりに自分は稚《をさな》い恋の小説を書き始めた昔の追憶に打沈められる。加ふるに、この海辺《うみべ》のホテルは家具の質素な西洋室である為、其の周囲の光景が自分にはまた特別の事件を思起《おもひおこ》させるのであつた。「あめりか物語」中最終の短篇にも書いた通り紐育《ニユウヨオク》湾頭の離島《はなれじま》に夜《よる》の小禽《ことり》が鳴く「六月の夜《よ》の夢」を見たのは、丁度々々《ちやうど/\》このやうな古びたペンキ塗りの水道も電灯もない田舎家の一室であつたのだ。円い磨硝子《すりがらす》の笠をかけた朦朧《もうろう》たるランプの火影に、十九歳のロザリンが洋琴《ピアノ》を弾きながら低唱したあのロマンスのなつかしさ。
あゝ。古びた家、木綿の窓掛、果樹の茂り、芝生の花、籠の鸚鵡《あうむ》、愛らしい小犬、そしてランプの光、尽きざる物思ひ………。あゝ、自分はかの眼もくるめく電灯の下《した》で、無智なる観客を相手に批評家と作家と俳優と興行師とが争名《さうめい》と収益との鎬《しのぎ》を削合《けづりあ》ふ劇場の天地を一日も早く忘れたい。さういふ激烈な芸術の巷《ちまた》を去りたい。そして悲しいロオダンバツクのやうに唯だ余念もなく、書斎の家具と、寺院の鐘と、尼と水鳥と、廃市を流るゝ堀割の水とばかりを歌ひ得るやうになりたい。
五
食堂に下《お》りて、西洋人の家族と独身の若者共とが互に談笑する中《なか》のテエブルに、自分ばかりは黙つて食事をすまし、広間の長椅子に凭《もた》れて其の辺《へん》に置いてある上海や香港《ホンコン》やマニラあたりの英字新聞を物珍らしく拾ひ読みした後、早く寝てしまつた。
次の朝、宿屋の番頭はこれから三里の山道をば温泉《うんぜん》ヶ|岳《たけ》の温泉へ行かれてはと云つてくれたが、自分は馬か駕籠《かご》しか通はぬといふ山道《やまみち》の疲労を恐れて、まる二日間をば唯《た》だ茫然とホテルの海に臨んだ外縁《ヴエランダ》の上に過してしまつた。自分には独りでぼんやり物思ひに沈んでゐるのが何よりも快かつたのである。
三日目の朝早く、毎日一回入江を往復する小さな蒸汽船に乗つて元《もと》来た港へ帰つた。上海や香港から避暑に来てゐた英国人二三名も同じく船に乗つた。岸に沿ひつゝ入江を横切るには三時間あまり。彼等は船が殊更《ことさら》絵のやうに美しい海岸の巌角《いはかど》なぞを通り過ぎる折々《をり/\》啣《くは》へてゐる大きなパイプを口元から離して、日本の山水《さんすゐ》のうつくしい事を自分に語つた。支那には木がなく水は黄色に濁つてゐる。だから、日本へ来て緑の濃い木《こ》の葉《は》と真青《まつさを》な水の色を見るのが何《ど》れほど愉快だか知れないと云ふのであつた。対岸なる茂木の港へ上《あが》ると、こゝにも外客の為めに設けられてある小さな木造りのホテルに、避暑の外人が込み合つてゐる。その中《なか》には、若い妻をつれた軍服姿の米国の士官も三四人と数へられた。自分は大きな松の木蔭《こかげ》に並べてある食卓にビイルを傾けた後、ホテルの車を雇つて、長崎へ帰るべき峠を越して行くと、またしても同じ道を行く米国人の家族連れが、峠や谷川の景色の美しい事をば、まるで自分の家《いへ》の庭でも賞めてくれるやうに、自分に向つて話しかけるのであつた。
長崎の或ホテルへ着いてからも、或は又其の翌日横浜行の汽船に乗つてからも、自分は南清《なんしん》及びフイリツピン群島から遊びに来る西洋人から、日本の風景に対する同様の賛辞を幾たび耳にしたか知れない。
近頃東京朝日新聞の文芸欄に掲げられた「新日本風景論」の中にも論じられてゐたやうに、日本の風景が果して世界第一か否かは無論断定せらるべき事でもなく、又断定すべき必要もない事である。然し自分が汽船の上から観て過ぎた日本の風景は、何等の智的判断を許す暇《いとま》もないほどに唯々美しいと感じ得るのであつた。島嶼《たうしよ》の多い長崎港外の海湾、湖水の様な瀬戸内海から荒涼たる紀州半島、凹凸《あふとつ》の甚しい伊豆の岬に至るまで、海から眺望する日本の風景はいかにも青々として、いかにも優しく、いかにも日本らしい特種の姿をそなへてゐる事を感じ得るのであつた。外来の漫遊客が時として吾々には誇張したお世辞かとも思はれる程、日本の風景を愛賞し、都会の生活の文明的設備の不完全を度外視して、寧《むし》ろ田園に於ける原始的生活の状態に興味を持ち、始めから終りまで麗しい印象を以て、われ等の祖国を迎へてくれるのも、成程無理ではない。彼等は最初より日本を公園として其の綺麗な方面のみを見やうとしてゐるのである。複雑なる内地の事情に接近する事を必要としてゐないのである。然し彼等ならざる吾々は、此れに反していかに見まい聞くまいとしても、自然と見え聞える国民生活の物音に対して街道のほとりに立つ猿の彫刻のやうに耳と目と口とを閉《ふさ》いでゐる事は出来ない。自分は美しい祖国の風景を海の上から、乃《すなは》ち其の外側から眺めるにつけて、其の内側に潜んでゐる日本現代の生活と日本人の性情とがいかに甚しく日本的風景と其の趣きを異《こと》にしてゐるかに一驚せざるを得ない。試みに旅から帰つて来て、乃ち日本の風景の懐中《ふところ》から去つて東京の市街を歩んで見よ。新しい日本人が経営する新しい都会の生活には、日本の江湾と山岳とによつて印象されるやうな、可憐美麗真実なる何物が見出《みいだ》されるであらうか。自分は工業と商業の余儀ない外観を云々《うんぬん》するのではない。個人として国民としての内的生活に於て、現代日本人の心情は余りに、富士山の姿と天の橋立の趣きから遠ざかり過ぎてゐる事を自分は不思議に感ずるのである。国民と国土の風景とが何等の関係もなく余りに別々である事を不審に思ふのである。
六
汽船は海上四日の後《のち》横浜に着いた。
自分は海岸通りのホテルに茶菓《さくわ》を味《あぢは》つた後《のち》、汽車で東京に帰つた。人家の屋根の上には梅毒の広告が突立《つつた》つてゐる大きな都会。電車の停留する四辻では噛み付くやうな声で新聞の売子が、「紳士富豪の秘密を暴《あば》きました………。」と叫んでゐる恐しい都会。長い竹竿を振り廻して子供が往来の通行を危険にしてゐる乱雑な都会。市民と市吏と警察吏とが豹変常なき新聞記者を中間にして相互の欠点を狙ひ合つてゐる気味悪い都会。その片隅に嗚呼《あゝ》自分の家《いへ》がある。
[#地から1字上げ]明治四十四年九月
底本:「日本の名随筆 別巻51 異国」作品社
1995(平成7)年5月25日第1刷発行
底本の親本:「荷風全集 第一三巻」岩波書店
1963(昭和38)年2月発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:門田裕志
校正:noriko saito
2009年12月
前へ
次へ
全3ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
永井 荷風 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング