、》、水道と瓦斯《ガス》と溝掃除《どぶさうぢ》で、掘り返されてもゐないので、全く歩くべき道として、静に心安く歩くことが出来る。車夫や物売りの相貌《かほつき》も非常に柔和であつて、東京中を横行する彼の恐しい工夫や職工や土方のやうなものは至つて鮮《すく》ない。
 自分はこれにつけても進取と云ひ新興と云ふが如き機運の如何に残忍なものであるか。同時に静止と満足と衰頽との如何に懐しいものであるかを感ずる。
 嘗て北米|西海岸《せいかいがん》の新開の都市に滞在してゐた時、自分は如何に悲惨な生涯を送つたかを思ひ返す。それは丁度|今日《こんにち》の東京に住んでゐると同じやうな心持であつた。限りなく騰貴する物価は住民に向つて常に粗悪なる物品と食物とを供給せしめ、足らぬ勝ちなる生活は次第に野卑となつて礼儀交際の美観を許さず、目的を第一とした暴悪な行動は手段の如何を問はしめない。然もかう云ふ社会に限つて偏狭なる道徳的先入の判断が過敏であつて、団体の運動はいつも個人の私行にまで立ち入らうと迫る。自分は人種的迫害の事情の下《もと》に日本人の社会にも又米国人の社会にも接近する事が出来ず、唯《た》だ独り遣瀬《やるせ
前へ 次へ
全21ページ中9ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
永井 荷風 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング