^\と追ひかけて来て互に相縺《あひもつ》れ合ふのである。縺れ合ふ鐘の余韻は、早やたつぷりと暮れ果てた灯火の港を見下《みおろ》す自分の心に向つて、お前は何故《なぜ》もつと早く此処へ来なかつたのだ。東京はもうお前の住むべき処ではない。早く俗縁を断《た》つて、過去の繁華を夢に見つゝ心地よく衰頽の平和に眠つて行く此の長崎に来い………と諭《さと》してくれるやうにも思はれた。
敢《あへ》て鐘の音《ね》のみではない。到る処散歩に適する市街の光景は皆自分に向つて、日本中でお前が身を隠すに適当な処は支那でもなく日本でもなく西洋でもない、此《この》特別の長崎ばかりだぞと囁くやうに思はれた。幾ヶ所とも知れぬ長崎の古い寺々は蔦《つた》まつはる其の土塀と磨減《すりへ》つた石段と傾いた楼門の形とに云ひ知れぬ懐しさを示すばかりで、奈良京都の寺院の如くに過去の権威の圧迫を感じさせない。曲学阿世の学者が無理やりに過去の日本歴史から造り出した教訓的臭味を感じさせない。若《も》し此地《このち》に過去の背景があるとすればそれは山の手なる天主堂の壁にかけてある油絵が示してゐるやうな、悲壮なる宗教迫害史の一節か、然らずば鎖国の
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