曹フ軍人が騒いで遊ぶ丸山遊廓の絃歌の声、或はまた長崎の街々の端《はづ》れにある古寺の鐘の音《ね》によつて、一層深く味《あぢは》ひ得られるのであつた。
自分は未だ嘗て長崎に於けるが如く、軟かな美しい鐘の音を聞いたことは無い。上陸した最初の日の夕方、乃《すなは》ち長崎の夕凪《ゆうなぎ》とか称《とな》へて、烈しい炎暑の一日《いちじつ》の後《あと》、入日と共に空気は死するが如くに沈静し、木葉《このは》一枚動かぬやうな森閑とした黄昏《たそがれ》、自分は海岸から堀割をつたはつて、外国人向きの商店ばかり並んだ一条の町を過ぎ、丸山に接する大徳寺《だいとくじ》といふ高台の休茶屋から、暮れて行く港の景色を眺めてゐた時であつた。何処《どこ》からとも知れぬが、確かに二三箇所から一度に撞出《つきだ》される梵鐘《ぼんしよう》の響は、長崎の町と入海《いりうみ》とを丁度|円形劇場《アンフイテアトル》のやうに円く囲む美しい丘陵に遮られて、夕凪の沈静した空気の中《なか》に如何にも長閑《のどか》に軟かく、そして何時までも消えずに一つ処に漂つてゐる。最初に撞出された響が長く空中に漂つてゐる間に新しく撞出される次の響が後から
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