ナはないか。新しい劇場や新しい橋梁の建築に対して、或は各処の劇場に演じられる突飛なる新興芸術の試みに対して経験した憤怒の如きは、全く我ながら馬鹿らしい事だと心付く。海洋に於ける大きな自然の美は陸上のつまらない小さな芸術の論争などを顧みさせる余裕を許さない。
自分は海に沈むすさまじい夕陽の色に酔つた。岬の岩角を噛む恐しい波の牙を見た。緑色した島の上に立つ真白な灯台を見た。山の裾に休息してゐる哀れな漁村の屋根を見た。暗夜に舷《ふなばた》を打つ不知火《しらぬひ》の光を見た。水夫が叩く悲しい夜半《やはん》の鐘の音《ね》を聞いた。異《ちが》つた人種の旅客を見た。自分の祖国に対するそれ等の人々の批評をも聞いた。港に這入《はい》つては活気ある波止場の生活を見た。新しいさま/″\の物音を聞いた。いろ/\な船といろ/\な国の旗を見た。そして自分の見たり聞いたりした其れ等の物は悉《こと/″\》く自分の心に向つて、この世の生存のいかに愉快であるかを歌つて聞かせるものゝやうに思はれた。夜半人の寝静《ねしづま》つた時、唯一人《ただひとり》舷に倚《よ》つて水を凝視すれば「死」はいつも自分の目前《めのまへ》に広が
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