煢]へぬ快感を覚え、陸地の世界とは全く絶縁してしまつたやうな慰安と寂寞とを感ずる。
 この慰安と寂寞を味《あぢは》はんが為めに、自分は目的なく横浜の埠頭を離れて海に漂つたのである。夏の大空に輝く強い日光、奇怪なる雲の峯、洋々たる波浪、悲壮なる帆影《はんえい》、凡《すべ》て自由にして広大なる此等の海洋的風景は、如何に自分の心を快活にしてくれたであらう。あゝ此の二三年間、自分はあまりに烈しく、社会的並びに芸術的の圧迫に苦悩し過ぎた。人間が誰でも持つて居べき純朴温厚なる本来の感情さへ、自分は日に日に消滅して行くやうな情ない心持がしてゐた。自分は衰弱した身心の健康を、力ある海洋の空気によつて恢復させ、最少《もすこ》し軟かな暖《あたゝか》な感情を以て、自分と自分の周囲を顧ることが出来るやうになりたいと思つた。
 内地に於ける名所古蹟の遊覧には歴史的賞讃の義務を強ひられる虞《おそれ》がある。海洋には純然たる色彩の美があるばかりである。海は飽くまで自由である。自由にして大きな海を見れば、陸上の都会に於て、自分の心を激昂させた凡ての論争も、実に小さなつまらないものとなつて、水平線の下に沈み消えてしまふ
前へ 次へ
全21ページ中3ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
永井 荷風 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング