{オドレエル。

     一

 昨日《きのふ》長崎から帰つた。八月の中旬横浜から上海《シヤンハイ》行の汽船に乗つて、神戸門司を経て長崎に上陸し、更に山を越えて茂木《もぎ》の港に出《い》で、入海《いりうみ》を横切つて島原半島に遊んだ後、帰り道は同じく上海より帰航の便船をまつて、同じ海と同じ港を過ぎて横浜に上陸したのである。二週日の間《あひだ》自分は海ばかりを見た。島と岬と岩と船と雲ばかりを見た。今だに強い海洋の香気と色彩とが腸《はらわた》まで浸み渡つてゐるやうな心持がする。
 自分はどういふ理由から夏の旅行の目的地を、殊更暑いと云はれた南方の長崎に択んだのか自分ながらも少しくその解釈に苦しむのである。自分は唯《たゞ》広々した大きな景色が見たかつた。自分は出来るだけ遠く自分の住んでゐる世界から離れたやうな心持になりたかつた。人間から遠ざかりたかつた。この目的のためには、汽車で行く内地の山間よりも、船を以て海洋に泛《うか》ぶに如《し》くはない。海は実に大きく自由である。自分は東京の市内に於ても、隅田川の渡船《わたしぶね》に乗つてさへ、岸を離れて水上に泛べば身体《しんたい》の動揺と共に何と
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