コを歩くボオイの足音、時々にママア/\と云つて母親を呼ぶ子供の声に乱されるばかり。然し日本の居室と違つて確然と区別のある西洋間の心安さは、襖の隙間から隣の部屋の乱雑を見ることもなく、枕元にひゞく上草履《うはざうり》の音もなく、自分は全く隔離されたる個人として外縁《ヴエランダ》の上なる長椅子に身を横《よこた》へ、恣《ほしいまゝ》なる空想に耽けることが出来た。
 自分は旅のつかれに眠気《ねむけ》を催しながら、あまりの淋しさ静けさに却《かへつ》て神経を刺戟せられ、うつら/\と、無い事をも有るやうに、有る事をも無いものゝやうに、止め度もなく、いろ/\と不合理な事ばかりを考へ始めるのである。誰やらの詩で読んだ――気狂《きちが》ひになつた詩人が夜半《やはん》の月光に海の底から現れ出る人魚の姫を抱《いだ》き致死《ちし》の快感に斃れてしまつたのも、思ふに斯《か》う云ふ忘れられた美しい海辺《うみべ》の事であらう。人のゐない宿屋の一室に置き捨てられた鏡台の曳出《ひきだ》しからは無名の音楽者の書きかけた麗しい未成《みせい》の楽譜のきれはしが発見せられはしまいか。或は自殺未遂者の置き忘れて行つた剃刀《かみそり
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