tが出はしまいか。
 自分は遠いこの島原の海のほとり、西洋人ばかりしか泊《とまつ》てゐない宿屋の一室に人知れず自殺したらどうであらう。こんな事を考へて我ながら戦慄した。斯《かく》の如き戦慄の快感を追究するのは敢《あへ》て自分ばかりではあるまい。小説的《ロマンチツク》と云ふ病気に罹《かゝ》つたものは皆さうであらう。自分は幼《ちひさ》い時|乳母《うば》から、或お姫様がどう云ふ間違からか絹針を一本お腹《なか》の中へ呑込んでしまつた。お医者様も薬もどうする事も出来ない。絹針は三日三晩悲鳴を上げて泣きつゞけたお姫様の身体中《からだぢゆう》をば血の流れと共に循《めぐ》り巡《めぐ》つて、とう/\心の臓を突破つて、お姫様を殺してしまつたとか云ふ話を聞いた。そして自分も万が一さう云ふ危難に遭遇したらどうしやう、と思ふと、激甚な恐怖の念は一種不可思議な磁石力《じしやくりよく》を以て人を魅するものである。自分は何となく自ら進んで其の危難に近《ちかづ》きたいやうな夢現《ゆめうつゝ》の心持になつた。石筆《せきひつ》や鉛筆なぞを口の端《はた》まで持つて行つては、自分から驚いて泣き出した事があつた。古井戸の真暗な底
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