、》、水道と瓦斯《ガス》と溝掃除《どぶさうぢ》で、掘り返されてもゐないので、全く歩くべき道として、静に心安く歩くことが出来る。車夫や物売りの相貌《かほつき》も非常に柔和であつて、東京中を横行する彼の恐しい工夫や職工や土方のやうなものは至つて鮮《すく》ない。
自分はこれにつけても進取と云ひ新興と云ふが如き機運の如何に残忍なものであるか。同時に静止と満足と衰頽との如何に懐しいものであるかを感ずる。
嘗て北米|西海岸《せいかいがん》の新開の都市に滞在してゐた時、自分は如何に悲惨な生涯を送つたかを思ひ返す。それは丁度|今日《こんにち》の東京に住んでゐると同じやうな心持であつた。限りなく騰貴する物価は住民に向つて常に粗悪なる物品と食物とを供給せしめ、足らぬ勝ちなる生活は次第に野卑となつて礼儀交際の美観を許さず、目的を第一とした暴悪な行動は手段の如何を問はしめない。然もかう云ふ社会に限つて偏狭なる道徳的先入の判断が過敏であつて、団体の運動はいつも個人の私行にまで立ち入らうと迫る。自分は人種的迫害の事情の下《もと》に日本人の社会にも又米国人の社会にも接近する事が出来ず、唯《た》だ独り遣瀬《やるせ》のない思ひを抱《いだ》いて、新大陸の海岸一帯を蔽ふ松の深林ばかりを散歩してゐた。自然が如何に公平で如何に温いものであるかを心の底から会得したやうに感じたのも此の時が初めてゞあつた。
横浜を出て四日間の航海と、幾百里離れた長崎の風景とが、東京を忌む自分の心にいかなる慰安を与へたかはこゝに繰返して云ふ必要がない。自分は帰りの便船を待つべき三日間をば尚少《もすこ》し遠く尚少し離れた処に送りたいと思ひ、ホテルの案内書をたよりにして島原の小浜《をばま》と云ふ海岸に赴いたのである。こゝは人も知る通り、上海やマニラや浦塩《うらじほ》あたりから、日光箱根などへ行く事の出来ない種類の西洋人が、日本の風景を唯一の慰藉として遊びに来る土地である。
自分は其れ等の外客と小蒸汽に乗つて島原の入海を越え海岸の小さな木造《きづく》りのホテルに宿を取つた。
三
白い蚊帳《かや》のついた寝台《ねだい》と籐編《とうあみ》の椅子と鏡台と洗面器の外には何もない質素な一室である。壁には画額《ゑがく》もなく、窓には木綿更紗《もめんさらさ》の窓掛《まどかけ》が下げてあるばかり。然し自分はどれほどこの無装飾の淋しい室《へや》を喜んだか知れない。東京の帝国ホテルの食堂を飾つてゐるやうなサムライ商会式の西洋趣味に驚かされる恐れもなく、または日本風の宿屋の床の間や鴨居に俗気紛々たる官吏政治家等の筆蹟を見て不快を感ずるやうな事もなくて済むからである。装飾のない室の外は葭簀《よしず》の日避《ひよけ》をした外縁《ヴエランダ》になつてゐて、広々した海湾の景色は寝台の上に横《よこた》はりながら一目《ひとめ》に見晴《みはら》すことが出来る。強い日光に照りつけられた海水の反映が室の壁と天井とに絶間《たえま》なく波紋の揺《うご》く影を描《ゑが》いてゐる。窓の上に巣を作つてゐる燕が、幾羽となく海の方へ飛んで行つては海草《うみくさ》のちぎれを喙《ついば》んで来る。自分はこの可愛らしい燕と思ふさま照り輝く夏の日光と入海の彼方に延長する優しい丘陵とに対して、何といふ事もなくダンヌンチオ作品中の風景に接する思をなした。これと共に南の方へ漂つて来たといふ心持が一層深くなるのを覚えた。
夏の昼過ぎの明《あかる》い寂寞《せきばく》は、遠い階下の一室から聞える玉突の音と折々《をり/\》起る人々の笑ひ声、森閑とした白昼のホテルの廊下を歩くボオイの足音、時々にママア/\と云つて母親を呼ぶ子供の声に乱されるばかり。然し日本の居室と違つて確然と区別のある西洋間の心安さは、襖の隙間から隣の部屋の乱雑を見ることもなく、枕元にひゞく上草履《うはざうり》の音もなく、自分は全く隔離されたる個人として外縁《ヴエランダ》の上なる長椅子に身を横《よこた》へ、恣《ほしいまゝ》なる空想に耽けることが出来た。
自分は旅のつかれに眠気《ねむけ》を催しながら、あまりの淋しさ静けさに却《かへつ》て神経を刺戟せられ、うつら/\と、無い事をも有るやうに、有る事をも無いものゝやうに、止め度もなく、いろ/\と不合理な事ばかりを考へ始めるのである。誰やらの詩で読んだ――気狂《きちが》ひになつた詩人が夜半《やはん》の月光に海の底から現れ出る人魚の姫を抱《いだ》き致死《ちし》の快感に斃れてしまつたのも、思ふに斯《か》う云ふ忘れられた美しい海辺《うみべ》の事であらう。人のゐない宿屋の一室に置き捨てられた鏡台の曳出《ひきだ》しからは無名の音楽者の書きかけた麗しい未成《みせい》の楽譜のきれはしが発見せられはしまいか。或は自殺未遂者の置き忘れて行つた剃刀《かみそり
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