tが出はしまいか。
自分は遠いこの島原の海のほとり、西洋人ばかりしか泊《とまつ》てゐない宿屋の一室に人知れず自殺したらどうであらう。こんな事を考へて我ながら戦慄した。斯《かく》の如き戦慄の快感を追究するのは敢《あへ》て自分ばかりではあるまい。小説的《ロマンチツク》と云ふ病気に罹《かゝ》つたものは皆さうであらう。自分は幼《ちひさ》い時|乳母《うば》から、或お姫様がどう云ふ間違からか絹針を一本お腹《なか》の中へ呑込んでしまつた。お医者様も薬もどうする事も出来ない。絹針は三日三晩悲鳴を上げて泣きつゞけたお姫様の身体中《からだぢゆう》をば血の流れと共に循《めぐ》り巡《めぐ》つて、とう/\心の臓を突破つて、お姫様を殺してしまつたとか云ふ話を聞いた。そして自分も万が一さう云ふ危難に遭遇したらどうしやう、と思ふと、激甚な恐怖の念は一種不可思議な磁石力《じしやくりよく》を以て人を魅するものである。自分は何となく自ら進んで其の危難に近《ちかづ》きたいやうな夢現《ゆめうつゝ》の心持になつた。石筆《せきひつ》や鉛筆なぞを口の端《はた》まで持つて行つては、自分から驚いて泣き出した事があつた。古井戸の真暗な底を差覗《さしのぞ》く時も、自分は同じやうな「死」の催眠術に引きかゝる。山の頂から谷底を望んだり滝壼を見たりしても同じである。
日頃あるにかひなき自分をば慰め劬《いたは》り、教へ諭《さと》してくれる凡《すべ》ての親しい人達から遠く離れて全く気儘になつた一身をば偶然《たま/\》かうした静な淋しい境《さかひ》に休息させると、それ等の恐しい空想は鴉片《あへん》の夢かとばかり、云ひ知れぬ麻痺の快感を肉心《にくしん》に伝へるのであつた。
室《へや》の戸を軽《かる》く叩く物音に自分は喫驚《びつくり》して夢から覚めた。ホテルのボオイが早や石油のランプを持ち運んで来たのである。
四
自分はぢつとランプの火影《ほかげ》を眺めた。外には夕栄《ゆふばえ》に染められた空と入江とが次第に蒼白く黄昏《たそが》れて行く。室《へや》の中には石油のランプがいかにも軟な悲しい光を投げ始める。自分はあまりの懐しさに此の旅館のランプをも島原の風景と同じやうに熱心に讃美して長く記憶に留めて置きたいと思つた。都会の生活は自分の書斎と友達の住宅を初め到る処|工場《こうぢやう》のやうに天井からぶら下つてゐる電気灯の光ばかりにしてしまつた。然るに今突然自分は此の黄色な鈍い石油ランプの火影に接して何とも云へぬ不思議な慰安を覚えた。世の中から全く隠退し得たやうな悲しいあきらめ[#「あきらめ」に傍点]の平和を感じた。同時に、まだ電灯が普及しない時分、かゝる薄暗い灯火の光をたよりに自分は稚《をさな》い恋の小説を書き始めた昔の追憶に打沈められる。加ふるに、この海辺《うみべ》のホテルは家具の質素な西洋室である為、其の周囲の光景が自分にはまた特別の事件を思起《おもひおこ》させるのであつた。「あめりか物語」中最終の短篇にも書いた通り紐育《ニユウヨオク》湾頭の離島《はなれじま》に夜《よる》の小禽《ことり》が鳴く「六月の夜《よ》の夢」を見たのは、丁度々々《ちやうど/\》このやうな古びたペンキ塗りの水道も電灯もない田舎家の一室であつたのだ。円い磨硝子《すりがらす》の笠をかけた朦朧《もうろう》たるランプの火影に、十九歳のロザリンが洋琴《ピアノ》を弾きながら低唱したあのロマンスのなつかしさ。
あゝ。古びた家、木綿の窓掛、果樹の茂り、芝生の花、籠の鸚鵡《あうむ》、愛らしい小犬、そしてランプの光、尽きざる物思ひ………。あゝ、自分はかの眼もくるめく電灯の下《した》で、無智なる観客を相手に批評家と作家と俳優と興行師とが争名《さうめい》と収益との鎬《しのぎ》を削合《けづりあ》ふ劇場の天地を一日も早く忘れたい。さういふ激烈な芸術の巷《ちまた》を去りたい。そして悲しいロオダンバツクのやうに唯だ余念もなく、書斎の家具と、寺院の鐘と、尼と水鳥と、廃市を流るゝ堀割の水とばかりを歌ひ得るやうになりたい。
五
食堂に下《お》りて、西洋人の家族と独身の若者共とが互に談笑する中《なか》のテエブルに、自分ばかりは黙つて食事をすまし、広間の長椅子に凭《もた》れて其の辺《へん》に置いてある上海や香港《ホンコン》やマニラあたりの英字新聞を物珍らしく拾ひ読みした後、早く寝てしまつた。
次の朝、宿屋の番頭はこれから三里の山道をば温泉《うんぜん》ヶ|岳《たけ》の温泉へ行かれてはと云つてくれたが、自分は馬か駕籠《かご》しか通はぬといふ山道《やまみち》の疲労を恐れて、まる二日間をば唯《た》だ茫然とホテルの海に臨んだ外縁《ヴエランダ》の上に過してしまつた。自分には独りでぼんやり物思ひに沈んでゐるのが何よりも快かつたのである。
三
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