ツてゐる事を自覚するにつけ、自分は美しい星の下《した》なるこの人生に対して、殆ど泣きたい程|切《せつ》なく鋭い愛着の念に迫まられるのである。
波浪を蹴つて進んで行く汽船の機関の一呼吸《ひとこきふ》する響毎《ひびきごと》に、自分の心は其身《そのみ》と共に遠い未知の境《さかひ》に運ばれて行く。昨日も海、今日もまた海、そして四日目の朝に、自分は絵のやうに美しく細長い入江の奥なる長崎に着いたのである。
二
長崎は京都と同じやうに、極めて綺麗な、物静かな都であつた。石道《いしみち》と土塀《どべい》と古寺《ふるでら》と墓地と大木の多い街であつた。花の多い街であつた。樹木の葉の色は東京などよりも一層鮮かに濃いやうに見えた。東京の蝉とは全く違つた鳴声《なきごゑ》の蝉が、夕立の降つてくるやうに市中《しちゆう》到る所の樹木に鳴いてゐた。果物を売り歩く女の呼声が湿気《しつき》のない晴れ渡つた炎天の下《もと》に、長崎は日本からも遠く、支那からも遠く、切支丹の本国からも遠い/\処である事を、沁々《しみ/″\》と旅客の心に感じさせるやうに響く。この云ひがたい遠国的の情調は、マニラから避暑に来る米国の軍人が騒いで遊ぶ丸山遊廓の絃歌の声、或はまた長崎の街々の端《はづ》れにある古寺の鐘の音《ね》によつて、一層深く味《あぢは》ひ得られるのであつた。
自分は未だ嘗て長崎に於けるが如く、軟かな美しい鐘の音を聞いたことは無い。上陸した最初の日の夕方、乃《すなは》ち長崎の夕凪《ゆうなぎ》とか称《とな》へて、烈しい炎暑の一日《いちじつ》の後《あと》、入日と共に空気は死するが如くに沈静し、木葉《このは》一枚動かぬやうな森閑とした黄昏《たそがれ》、自分は海岸から堀割をつたはつて、外国人向きの商店ばかり並んだ一条の町を過ぎ、丸山に接する大徳寺《だいとくじ》といふ高台の休茶屋から、暮れて行く港の景色を眺めてゐた時であつた。何処《どこ》からとも知れぬが、確かに二三箇所から一度に撞出《つきだ》される梵鐘《ぼんしよう》の響は、長崎の町と入海《いりうみ》とを丁度|円形劇場《アンフイテアトル》のやうに円く囲む美しい丘陵に遮られて、夕凪の沈静した空気の中《なか》に如何にも長閑《のどか》に軟かく、そして何時までも消えずに一つ処に漂つてゐる。最初に撞出された響が長く空中に漂つてゐる間に新しく撞出される次の響が後から/\と追ひかけて来て互に相縺《あひもつ》れ合ふのである。縺れ合ふ鐘の余韻は、早やたつぷりと暮れ果てた灯火の港を見下《みおろ》す自分の心に向つて、お前は何故《なぜ》もつと早く此処へ来なかつたのだ。東京はもうお前の住むべき処ではない。早く俗縁を断《た》つて、過去の繁華を夢に見つゝ心地よく衰頽の平和に眠つて行く此の長崎に来い………と諭《さと》してくれるやうにも思はれた。
敢《あへ》て鐘の音《ね》のみではない。到る処散歩に適する市街の光景は皆自分に向つて、日本中でお前が身を隠すに適当な処は支那でもなく日本でもなく西洋でもない、此《この》特別の長崎ばかりだぞと囁くやうに思はれた。幾ヶ所とも知れぬ長崎の古い寺々は蔦《つた》まつはる其の土塀と磨減《すりへ》つた石段と傾いた楼門の形とに云ひ知れぬ懐しさを示すばかりで、奈良京都の寺院の如くに過去の権威の圧迫を感じさせない。曲学阿世の学者が無理やりに過去の日本歴史から造り出した教訓的臭味を感じさせない。若《も》し此地《このち》に過去の背景があるとすればそれは山の手なる天主堂の壁にかけてある油絵が示してゐるやうな、悲壮なる宗教迫害史の一節か、然らずば鎖国の為めに頓挫した日本民族雄飛の夢のはかない名残りのみである。痛嘆すべきこの二つの歴史は、畿内の山河《さんが》がいつも自分に向つて消極的教訓を語るに反して、長崎の風景に対して一種名状しがたき憤恨《ふんこん》と神秘の色調を帯びさせてゐるやうに思はれる。今では同じく京都のやうに悲しく廃《すた》れ果てゝはゐるものゝ、猶《なほ》絶えず海と船とによつて外国の空気が通《かよ》つてゐるが為めか京都ほど暗くはない。狭くはない。支那風に彩色した軽舟《サンパン》は真青《まつさお》な海の上と灰色した堀割の石垣と石橋の下をば絶えず動いてゐる。西洋人と支那人と内地人の子供は青物市場のほとりに入乱れて遊んでゐる。稲佐《いなさ》と丸山の女は日本語とロシヤ語と英語とで一夜《いちや》の恋を語つてゐる。海岸通の酒場では黒奴《ネグロ》が弾くピアノにつれてポルトガルの女が踊つてゐる。いつも石の階段と敷石の坂道を上《のぼ》つて行く町々の人家は皆古びて何処となく頑丈で、而《しか》も小綺麗である。道路は極めて狭いけれども、吾々が住む東京の山の手のやうに軍人の馬と荷車の馬とが荒れ廻つてゐず、又下町の大通のやうに年《ねん》が年中《ねんぢゆ
前へ
次へ
全6ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
永井 荷風 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング