よく知らない伊太利語だから記憶して居ないのも無理はない。トリスタンの幕開《まくあき》、檣《ほばしら》の上で船頭の歌ふ歌、此の方が猶《なほ》よく境遇に適して居やう。処が今度は歌の文句ばかりで、唱ふべき必要の節が怪しくなつて居る。いか程歌ひたいと思つても、ヨーロツパの歌は唄《うた》ひにくい。日本に生れた自分は自国の歌を唄ふより仕方がないのか。自分はこの場合の感情――フランスの恋と芸術とを後にして、単調な生活の果てには死のみが待つて居る東洋の端《はづ》れに旅して行く。其れ等の思ひを遺憾なく云ひ現《あらは》した日本語の歌があるかどうかと考へた。
 然し此れは歌ひにくい西洋の歌に失望するよりも更に深い失望を感ぜねばならぬ。「おしよろ高島《たかしま》」と能《よ》く人が歌ふ。悲しくツていゝ節《ふし》だと賞《ほ》める。けれども旅と追分節《おひわけぶし》と云ふ事のみが僅な関係を持つて居るだけで、ギリシヤの神話を思出す様な地中海の夕暮に対する感情とは余りに不調和ではないか。「竹本《たけもと》」や「常磐津《ときはづ》」を初め凡《すべ》ての浄瑠璃《じやうるり》は立派に複雑な感激を現《あらは》して居るけれど、「
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