何とも思ふ事が出来ない。唯《たゞ》非常に心持がよくて堪へられない事だけを意識するに止《とど》まつてゐる。自分は却て大なる苦痛に悩むがやうにどつさり有《あ》り合《あ》ふ長椅子に身を落し、遠く空のはづれに眼を移した。
夕《ゆふべ》の明《あかる》い星は五ツ六ツともう燦《きらめ》き初《そ》めて居る。自分はぢつと其の美しい光を見詰めて居ると、何時か云はれぬ詩情が胸の底から湧起《わきおこ》つて来て殆ど押へ切れぬやうな気がする。肺腑《はいふ》の底から自分はこの暮れ行く地中海の海原《うなばら》に対して、声一杯に美しい歌を唄《うた》つて見たいと思つた。すると、まだ歌はぬ先から、自分の想像した歌は美しい声となつて、ゆるやかな波のうねりに連れて、遠く/\の空間に漂《たゞよ》ひ消えて行く有様が、もう目に見えるやうな気がする。
自分は長椅子から立上り爽《さわやか》な風に面《おもて》を吹かせ、暖《あたゝか》く静かな空気を肺臓一ぱいに吸込《すひこ》み、遠くの星の殊更美しい一ツを見詰めて、さて唇を開いて声を出さうとすると、哀れ心ばかり余りに急《せ》き立つて居た為めか、自分はどう云ふ歌を唄《うた》ふのであつたか、す
前へ
次へ
全13ページ中7ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
永井 荷風 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング