のアルジエリイあたりであらう。
 食事の後《のち》甲板に出ると夕凪《ゆふな》ぎの海原《うなばら》は波一つなく、その濃い紺色の水の面《おもて》は磨き上げた宝石の面《おもて》のやうに一層の光沢を帯び、欄干から下をのぞくと自分の顔までが映るかと思はれた――美しい童貞《わらべ》の顔のやうになつて映るかと思はれた。無限の大空には雲の影一ツない。昼の中《うち》は烈しい日の光で飽くまで透明であつた空の藍《あゐ》色は、薄く薔薇色を帯びてどんより[#「どんより」に傍点]と朧《おぼ》ろになつた。仏蘭西《フランス》で見ると同じやうな蒼《あを》い黄昏《たそがれ》の微光は甲板上の諸有《あらゆ》るものに、船梯子《ふなばしご》や欄干や船室の壁や種々《いろ/\》の綱なぞに優しい神秘の影を投げるので、殊に白く塗り立てた短艇《ボート》にも何か怪しい生命《いのち》が吹き込まれたやうに思はれる。
 そよ吹く風は丁度|酣《たけなは》なる春の夜《よ》の如く爽《さわや》かに静《しづか》に、身も溶けるやうに暖《あたゝか》く、海上の大なる沈静が心を澄ませる。
 自分の心は全く空虚《うつろ》になつた。悲しいとも、淋しいとも、嬉しいとも、
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