行くとか云ふ身許《みもと》の知れぬ女とが声を合《あは》せて歌ふのを聞付けた。滑稽な軽佻《けいてう》な調子から、それはロンドンの東街《ひがしまち》の寄席《よせ》などで歌ふ流行唄《はやりうた》らしい。音楽としては無論何の価値もないものだけに、聞き澄《すま》して居るとイギリスの労働者が海を越して遠く熱帯の地に出稼ぎに行く心持が、汚《きたな》い三等室や薄暗い甲板の有様と釣合《つりあ》つて非常に能《よ》く表現されて居る。
幸福な国民ではないか。イギリスの文明は下層の労働者にまで淋しい旅愁を託《たく》するに適すべき一種の音楽を与へた。明治の文明。それは吾々《われ/\》に限り知られぬ煩悶を誘《いざな》つたばかりで、それを訴ふべく託すべき何物をも与へなかつた。吾等が心情は已に古物《こぶつ》となつた封建時代の音楽に取り縋《す》がらうには余りに遠く掛け離れてしまつたし、と云つて逸散《いつさん》に欧洲の音楽に赴《おもむ》かんとすれば、吾等は如何なる偏頗《へんぱ》の愛好心を以てするも猶《なほ》風土人情の止《や》みがたき差別を感ずるであらう。
吾等は哀れむべき国民である。国土を失つたポーランドの民よ。自由を
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