持たぬロシヤ人よ。諸君は猶《なほ》シヨーパンとチヤイコウスキーを有してゐるではないか。
 夜《よる》の進むにつれて水は黒く輝き空は次第に不思議な光沢を帯びて、恐ろしく底深く見え、星の光の明《あかる》く数多い事は又驚くばかりである。神秘なる北アフリカに近い地中海の空よ。イギリスの工夫《こうふ》が歌ふ唄《うた》は物哀れに此の神秘の空に消えて行く。
 歌へ。歌へ。幸福なる彼等。
 自分は星斗《せいと》賑《にぎは》しき空をば遠く仰ぎながら、心の中《うち》には今日よりして四十幾日、長い/\船路《ふなぢ》の果に横《よこた》はる恐《おそろ》しい島嶼《しま》の事を思浮《おもひうか》べた。自分はどうしてむざ/\巴里《パリー》を去ることが出来たのであらう。



底本:「日本の名随筆56 海」作品社
   1987(昭和62)年6月25日第1刷発行
   1999(平成11)年8月25日第10刷発行
底本の親本:「荷風全集 第三巻」岩波書店
   1963(昭和38)年8月発行
入力:門田裕志
校正:noriko saito
2009年12月3日作成
青空文庫作成ファイル:
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