一夕
永井荷風
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)四方山《よもやま》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)時|一人《いちにん》の
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(例)※[#「孚」の「子」に代えて「臼」、212−11]
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一 小説家二、三人打寄りて四方山《よもやま》の話したりし時|一人《いちにん》のいひけるはおよそ芸術を業とするものの中《うち》にて我国当世の小説家ほど気の毒なるはなし。それもなまじ西洋文学なぞうかがひて新しきを売物にせしものこそ哀れは露のひぬ間《ま》の朝顔、路ばたの槿《むくげ》の花にもまさりたれ。もし画家たりとせんか梅花《ばいか》を描きて一度《ひとたび》名を得んには終生唯梅花をのみ描くも更に飽かるる虞《おそれ》なし。年老いて筆力つかるれば看るものかへつて俗を脱したりとなし声価いよいよ昂《あが》るべし。俳優には市川家十八番の如きお株といふものあり。演ずる事たびたびなれば、観客ますます喜びてために新作を顧《かえりみ》るの暇《いとま》なきに至らしむ。音曲家《おんぎょくか》について見るもまた然らずや。聴衆の音曲家に望んで常に聴かんと欲する処はその人によりて既に幾回となく聴馴れしもの。即《すなわち》荒木古童《あらきこどう》が『残月《ざんげつ》』、今井慶松《いまいけいしょう》が『新曲晒《しんきょくさら》し[#「新曲晒《しんきょくさら》し」は底本では「新曲洒《しんきょくさら》し」]』、朝太夫《あさたゆう》が『お俊《しゅん》伝兵衛《でんべえ》』、紫朝《しちょう》が『鈴《すず》ヶ|森《もり》』の類《たぐい》これなり。神田伯山《かんだはくざん》扇《おうぎ》を叩けば聴客『清水《しみず》の治郎長《じろちょう》』をやれと叫び、小《こ》さん高座に上《のぼ》るや『睨み返し』『鍋焼うどん』を願ひますとの声|頻《しきり》にかかる。小説家の新作を出《いだ》すや批評家なるものあつて何々先生が新作例によつて例の如しといへば読者忽ちそんなら別に読むには及ぶまじとて手にせず。画工俳優音曲の諸芸家例によつて例の如くなれば益《ますます》よし。小説家例によつて例の如くなれば文運ここに尽く。小説家を以て世に立たんことまことに難《かた》し。
一 詩歌《しいか》小説は創意を主とし技巧を賓《ひん》とす。技芸は熟錬を主として創意を賓とす。詩歌小説の作|措辞《そじ》老練に過ぎて創意乏しければ軽浮《けいふ》となる。然れどもいまだ全く排棄すべきに非《あ》らず。演技をなすもの紊《みだり》に創意する処を示さんとしてその手これに伴はざれば全く取るなきに了《おわ》る。翻訳劇を演ずる俳優の技芸の如き、あるひはまた公設展覧会の賞牌《しょうはい》を獲《え》んとする画家の新作の如き即ちこれなり。
一 角力取《すもうとり》老後を養ふに年寄の株あり。もし四本柱に坐する事を得ばこれ終《おわり》を全くするもの。一身の幸福これより大なるはなけん。小説家その筆漸く意の如くならずその作また世に迎へられざるを知るや転じて批評の筆を取り他人の作を是非してお茶を濁す。事は四本柱の監査役と相同じくしてその実は然らず。一は退《しりぞ》いて権威いよいよ強く一は転じて全くその面目《めんもく》を失ふ。
一 われら折々人に問はるる事あり。先生いつまで小説をかくおつもりなるや。よく根気がつづくものなりよく種がつきぬものなりと。これお世辞なるや冷嘲《れいちょう》なるや我知らず。およそ小説と称するものその高尚難解なると通俗平易なるとの別なく共に世態人情の観察細微を極むるものなからざるべからず。高遠なる理想を主とする著作時として全く架空の事件を綴るものあるが如しといへども、行文《こうぶん》の中《うち》自《おのずか》ら作者の人間世間に対する観察の歴然として窺ふべきものあり。されば作者老いて世事に倦《う》みただ青山白雲を友としたきやうの考《かんがえ》起り来《きた》れば文才の有無にかかはらず、小説の述作は自《おのずか》ら絶ゆべし。小説の生命は俗なる所にあり。人間に接する処にあり。世事に興味を有する所にあり。西洋の文学小説に重《おもき》を置けども東洋においては然らざる所以《ゆえん》けだし尋《たずぬ》るに難からず。
一 柳亭種彦《りゅうていたねひこ》『田舎源氏《いなかげんじ》』の稿を起せしは文政《ぶんせい》の末なり。然ればその齢《よわい》既に五十に達せり。為永春水《ためながしゅんすい》が『梅暦《うめごよみ》』を作りし時の齢を考ふるにまた相似たり。彼ら江戸の戯作者いくつになつても色つぽい事にかけては引けを取らず。浮世絵師について見るに歌麿《うたま
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