ろ》『吉原青楼《よしわらせいろう》年中行事』二巻の板下絵《はんしたえ》を描きしは五十前後即ち晩年の折なり。我今彼らの芸術を品評せず唯その意気を嘉《よみ》しその労を思ひその勇に感ず。
一 今の小説家筆持つ事をば労作なりと称す。推敲《すいこう》は苦心なり固《もと》より楽事《らくじ》にあらず然れども苦悶の中《うち》自《おのずか》らまた言外の慰楽の伴来《ともないきた》るものなきにあらず。文事を以てあたかも蟻の物を運ぶが如き労働なりとなす所以《ゆえん》われらの到底解する能《あた》はざる所なり。工匠《こうしょう》の家を建つるは労働なり。然りといへども鑿《のみ》鉋《かんな》を手にするもの欣然《きんぜん》としてその業を楽しみ時に覚えず清元《きよもと》でも口ずさむほどなればその術必ず拙《つたな》からず。昔日《せきじつ》の普請《ふしん》と今日の受負《うけおい》工事とを比較せば思《おもい》半《なかば》に過《すぐ》るものあらん。
一 黄梅《こうばい》の時節漸く過ぐ、正に曝書《ばくしょ》すべし。偶《たまたま》趙甌北《ちょうおうほく》の詩集を繙《ひもと》くに左の如き絶句あるを見たり。
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 売文      〔文《ふみ》を売《う》る〕
売文銭稍入慳嚢 〔文《ふみ》を売《う》りて銭《ぜに》稍《いささ》か慳嚢《けんのう》に入《い》り
欲破休糧秘密方  糧《かて》を休《た》ちし秘密《ひみつ》の方《ほう》を破《やぶ》らんと欲《ほつ》す
楊子江中水雖浅  楊子江中《ようすこうちゅう》の水《みず》浅《あさ》しと雖《いえど》も
※[#「孚」の「子」に代えて「臼」、212−11]他一勺亦何妨  他《それ》を一勺《いっしゃく》※[#「孚」の「子」に代えて「臼」、212−11]《く》むに亦《ま》た何《なん》ぞ妨《さまた》げん〕
 編詩      〔詩《し》を編《あ》む〕
旧稿叢残手自編 〔旧稿《きゅうこう》の叢残《そうざん》を手自《てずか》ら編《あ》み
千金敝帚護持堅  千金《せんきん》の敝帚《へいそう》を護持《ごじ》すること堅《かた》し
可憐売到街頭去  憐《あわれ》む可《べ》し 売《う》りに街頭《がいとう》に到《いた》り去《ゆ》くも
尽日無人出一銭  尽日《ひねもす》 人《ひと》の一銭《いっせん》を出《いだ》すもの無《な》し〕
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一 市川松莚《いちかわしょうえん》君この頃『本草図譜《ほんぞうずふ》』『草木育種』『絵本|野山草《のやまぐさ》』等《とう》に載する所の我邦在来の花卉《かき》を集めて庭に栽《う》ゆ。君語つて曰く古めかしき草花《そうか》は植木屋にたのみても中《なか》には間々《まま》その名をさへ忘れられしものなぞありて可笑《おか》しと。さもあるべし。向島《むこうじま》の百花園《ひゃっかえん》なぞにても我国従来の秋草《あきぐさ》ばかりにては客足つかぬと見えて近頃は盛《さかん》に西洋の草花を植雑《うえまじ》へたり。日本の草花は温室咲の西洋草花に比すれば、その色淡泊その形|瀟洒《しょうしゃ》にて自《おのずか》らまた別種の趣《おもむき》あり。当世風の厚化粧|入毛《いれげ》沢山の庇髪《ひさしがみ》にダイヤモンドちりばめ女優好みの頬紅さしたるよりも洗髪《あらいがみ》に湯上りの薄化粧うれしく思ふ輩《やから》にはダリヤ、ベコニヤなんぞ呼ぶものよりも雪の下蛍草なぞのささやかなる花こそ夏には殊更好ましけれ。
一 つらつら四季を通じてわが国|草木《そうもく》の花を見るに、西洋種《せいようだね》の花に引比《ひきくら》ぶれば、ここに自《おのず》から特殊の色調あるを知る。牡丹《ぼたん》芍薬《しゃくやく》の花極めて鮮妍《せんけん》なれどもその趣《おもむき》決してダリヤと同じからず、石榴花《ざくろ》凌宵花《のうぜんかつら》宛《さなが》ら猛火の炎々たるが如しといへどもそは決して赤インキの如きにはあらず。牡丹の紅《くれない》は加賀友禅《かがゆうぜん》の古色を思はしめ、石榴花の赤きは高僧のまとへる緋《ひ》の衣《ころも》の色に似たり。日本の花はいかほど色濃く鮮なるも何となく古めきていひがたき渋味あり。庭後庵《ていごあん》主人好んで小鳥を飼ふ。かつて語りけるは小鳥もいろいろ集めて見る時は日本在来のものは羽毛《うもう》の色皆渋しと。まことや鶯、繍眼児《めじろ》、鶸《ひわ》、萵雀《あおじ》の羽の緑なる、鳩、竹林鳥《るり》の紫なる皆何物にも譬へがたなき色なり。今や世を挙げて西洋模倣の粗悪なる毒々しき色彩衣服に書籍に家屋に器具に到処《いたるところ》人の目を脅《おびやか》すにつけて、僅《わずか》両三年|前《ぜん》まではさほどにも思はざりける風土固有の温和なる色調、漸くそのなつかしさを増し行かんとす。気早《きばや》の人|紊《みだり》
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