を呼び起して家の中《うち》へ取入れさせやうと云はれた。処《ところ》が、母上は折悪しく下女が日中《ひる》風邪の気味で弱つて居た事を知つて居られたので、可哀さうですからと自ら寝衣《ねまき》のまゝで、雨戸を繰つて、庭に出て、雪の中をば重い松の盆栽を運ばれた……其の夜から風邪を引かれ、忽ち急性肺炎に変症したのださうです。
私は実に大打撃を蒙りました。其の後と云ふものは、友人と一緒に、牛肉屋だの料理屋なぞへ行つても、酒の燗が不可《いけ》ないとか飯の焚き方がまづいとか云ふ小言を聞くと、私は直ぐ悲惨な母の一生を思出して、胸が一杯になり、縁日や何かで人が植木を買つて居るのを見れば、私は非常な惨事を目撃した様に身を顫《ふる》はさずには居られなかつたのです。
処が幸にも一度、日本を去り、此の国へ来て見ると、万事の生活が全く一変して了つて、何一ツ悲惨を連想するものがないので、私は云《い》はれぬ精神の安息を得ました。私は殆どホームシツクの如何なるかを知りません。或る日本人は盛《さかん》に、米国の家庭や婦人の欠点を見出しては、非難しますが、私には例へ表面の形式、偽善であつても何でもよい、良人が食卓で妻の為め
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