届かぬ手抜《てぬか》りを見付出されては叱られて居られた。ですから、私が生れて第一に耳にしたものは、乃ち皺枯《しはが》れた父の口小言、第一に目にしたものは、何時も襷《たすき》を外した事のない母の姿で、無邪気な幼心に、父と云ふものは恐いもの、母と云ふものは痛《いたま》しいものだと云ふ考へが、何より先に浸渡《しみわた》りました。
私は殆ど父の膝に抱《いだ》かれた事がない。時々は優しい声を作つて私の名を呼ばれた事もあつたですが、猫の様にいぢけて了つた私は恐くて近《ちかづ》き得ないのです。殊に父の食事は前《ぜん》に申す通り、到底子供の口になぞ入れられる種類のものではないので、一度も膳を並べて箸を取つた事もなく、幼年から少年と時の経つに従つて、私は自然と父に対する親愛の情が疎くなるのみか、其の反対に、父なるものは暴悪|無道《ぶだう》な鬼の様に思はれ、其れにつれて、母上は無論私の感ずる程では無かつたかも知れないが、兎《と》に角《かく》、父が憎くさの私の眼だけには、世の中に、何一つ慰みもなく、楽みもなく暮らして居られる様に見へた。
此う云ふ境遇から此う云ふ先入の感想を得て、私は軈《やが》て中学校に
前へ
次へ
全11ページ中7ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
永井 荷風 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング