ぎで無ければ帰らない。其の給仕や酒の燗番《かんばん》をするのは、誰あらう、母一人です。無論、下女は仲働《なかばたらき》に御飯焚《おはんた》きと、二人まで居たのですが、父は茶人の癖として非常に食物の喧《やかま》しい人だもので、到底奉公人任せにしては置けない。母は三度々々自ら父の膳を作り、酒の燗をつけ、時には飯までも焚かれた事がありました。其程《それほど》にしても、まだ其の趣好に適しなかつたものと見へて、父は三度々々必ず食物の小事を云はずに箸を取つた事がない。朝の味噌汁を畷る時からして、三州味噌の香気《にほひ》がどうだ、塩加減がどうだ、此の沢庵漬《たくあん》の切形《きりかた》は見られぬ、此の塩からを此様《こんな》皿に入れる頓馬はない、此間《このあひだ》買つた清水焼はどうした、又|破《こわ》したのぢやないか、気を付けて呉れんと困るぞ……丁度落語家が真似をする通り、傍《そば》で聞いて居ても頭痛がする程小言を云はれる。
母の仕事は、恁《か》く永久に賞美されない料理人の外に、一寸触つても破《こわ》れさうな書画骨董の注意と、盆栽の手入で、其れも時には礼の一ツも云はれゝばこそ、何時も料理と同じ様に行
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