一月一日
永井荷風
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)屠蘇《とそ》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)頭取|某《なにがし》氏
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#地付き](明治四十年五月)
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)にや/\
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一月一日の夜、東洋銀行米国支店の頭取|某《なにがし》氏の社宅では、例年の通り、初春を祝ふ雑煮餅の宴会が開かれた。在留中は何れも独身の下宿住ひ、正月が来ても屠蘇《とそ》一杯飲めぬ不自由に、銀行以外の紳士も多く来会して、二十人近くの大人数である。
キチーと云つて、此の社宅には頭取の三代も変つて、最《も》う十年近く働いて居る独乙《ドイツ》種の下女と、頭取の妻君の遠い親類だとか云ふ書生と、時には妻君御自身までが手伝つて、目の廻《ま》ふ程に急《せわ》しく給仕をして居る。
『米国《アメリカ》まで来て、此様《こんな》御馳走になれやうとは、実に意外ですな。』と髭を捻《ひね》つて厳《いか》めしく礼を云ふもあれば、
『奥様、此れでやツとホームシツクが直りました。』とにや/\笑ふもあり、又は、
『ぢやア最《も》う一杯、何しろ二年振こんなお正月をした事がないんですから。』と愚痴らしく申訳するもある。
何れも、西洋人相手の晩餐会《デンナー》にスープの音さする気兼もないと見えて、閉切つた広い食堂内には、此の多人数がニチヤ/\噛む餅の音、汁を畷る音、さては、ごまめ、かづのこの響、焼海苔の舌打なぞ、恐しく鳴り渡るにつれて、『どうだ、君|一杯《ひとつ》。』の叫声、手も達《とゞ》かぬテーブルの、彼方《かなた》此方《こなた》を酒杯《さかづき》の取り遣り。雑談、蛙《かわず》の声の如く湧返つて居たが、其の時突然。
『金田は又来ないな。あゝハイカラになつちや駄目だ。』とテーブルの片隅から喧嘩の相手でも欲《ほ》しさうな、酔つた声が聞えた。
『金田か、妙な男さね、日本料理の宴会だと云へば顔を出した事がない。日本酒と米の飯ほど嫌ひなものは無いんだツて云ふから……。』
『米の飯が嫌ひ……某《それ》ア全く不思議だ。矢張《やツぱ》り諸君の……銀行に居られる人か?』と誰れかゞ質問した。
『さうです。』と答へたのは主人の頭取で、
『もう六七年から米国《べいこく》に居るんだが……此の後も一生外国に居たいと云つて居る。』
騒然たる一座の雑談は忽《たちま》ち此の奇な人物の噂さに集中した。頭取は流石《さすが》老人だけに当らず触らず。
『鳥渡《ちよつと》人好きはよくないかも知らんが極く無口な柔順《おとな》しい男で、長く居るだけ米国の事情に通じて居るから、事務上には必要の人才《じんさい》だ。』と穏な批評を加へて、酒杯に舌を潤はした。
『然《しか》し、余り交際を知らん男ぢや無いですか。何程《いくら》、酒が嫌ひでも、飯が嫌ひでも、日本人の好誼《よしみ》として、殊に今夜の如きは一月一日、元旦のお正月だ!。』と最初の酔つた声が不平らしく非難したが、すると、此《これ》に応じて、片隅から、今までは口を出さなかつた新しい声が、徐《おもむろ》に、
『然《しか》しまア、さう攻撃せずと許して置き給へ。人には意外な事情があるもんだ、僕もつい此間まで知らなかつたのだが、先生の日本酒嫌ひ、日本飯嫌ひには深い理由があるんだ。』
『はア、さうか。』
『僕はそれ以来、大《おほひ》に同情を表して居る。』
『一体、どう云ふ訳だ?』
『正月の話には、ちと適当しないやうだが……。』と彼は前置して、
『つい此間、クリスマスの二三日|前《ぜん》の晩の事さ。西洋人に贈《や》る進物の見立をして貰ふには、長く居る金田君に限ると思つてね、彼方《あツチ》此方《こツち》とブロードウヱーの商店を案内して貰つた帰り、夜も晩くなるし、腹も空《す》いたから、僕は何の気なしに、近所の支那料理屋にでも行かうかと勧めると、先生は支那料理はいゝが、米の飯を見るのが厭だから……と云ふので、其《そ》のまゝ先生の案内で、何とか云ふ仏蘭西《フランス》の料理屋に這入《はい》つたのさ。葡萄酒が好きだね……先生は。忽ちコツプに二三杯干して了ふと、少し酔つたと見えて、ぢツと目を据ゑて、半分ほど飲残した真赤な葡萄酒へ電気燈の光を反射する色を見詰めて居たが、突然、
『君は両親とも御健在ですか。』と訊く。妙な男だと思ひながらも、
『えゝ、丈夫ですよ。』と答へると、俯向《うつむ》いて、
『私は……父はまだ達者ですが、母は私が学校を卒業する少し前に死亡《なくな》りました。』
僕は返事に困つて、飲みたくもない水を飲みながら其の場を紛らした。
『君の父親《フアーザー》は、酒を飲まれるのですか?』少時《しばらく》して又|訊出《きゝだ》す
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