『いや、時々|麦酒《ビール》位は遣るやうです。大した事は有りません。』
『それぢや、君の家庭は平和でせうね。実際、酒は不可《いか》んです。僕も酒は何によらず一滴も飲《や》るまいとは思つて居るんですが、矢張り多少は遺伝ですね。然し、私は日本酒だけは、どうしても口にする気がしないです……香気《にほひ》を嗅いだ丈けでも慄然《ぞつ》とします。』
『何故です。』
『死んだ母の事を思ひ出すからです。酒ばかりじや無い、飯から、味噌汁から、何に限らず日本の料理を見ると、私は直ぐ死んだ母の事を思ひ出すのです。
 聞いて下さいますか――
 私の父は或人《あるひと》は知つて居ませう、今では休職して了ひましたが、元は大審院の判事でした。維新以前の教育を受けた漢学者、漢詩人、其れに京都風の風流を学んだ茶人です。書画骨董を初め、刀剣、盆栽、盆石の鑑賞家で、家中はまるで植木屋と、古道具屋を一緒にしたやうでした。毎日の様に、何れも眼鏡を掛けた禿頭の古道具屋と、最《も》う今日では鳥渡《ちよつと》見られぬかと思ふ位な、妙な幇間《ほうかん》肌の属官や裁判所の書記どもが詰め掛けて来て、父の話相手、酒の相手をして、十二時過ぎで無ければ帰らない。其の給仕や酒の燗番《かんばん》をするのは、誰あらう、母一人です。無論、下女は仲働《なかばたらき》に御飯焚《おはんた》きと、二人まで居たのですが、父は茶人の癖として非常に食物の喧《やかま》しい人だもので、到底奉公人任せにしては置けない。母は三度々々自ら父の膳を作り、酒の燗をつけ、時には飯までも焚かれた事がありました。其程《それほど》にしても、まだ其の趣好に適しなかつたものと見へて、父は三度々々必ず食物の小事を云はずに箸を取つた事がない。朝の味噌汁を畷る時からして、三州味噌の香気《にほひ》がどうだ、塩加減がどうだ、此の沢庵漬《たくあん》の切形《きりかた》は見られぬ、此の塩からを此様《こんな》皿に入れる頓馬はない、此間《このあひだ》買つた清水焼はどうした、又|破《こわ》したのぢやないか、気を付けて呉れんと困るぞ……丁度落語家が真似をする通り、傍《そば》で聞いて居ても頭痛がする程小言を云はれる。
 母の仕事は、恁《か》く永久に賞美されない料理人の外に、一寸触つても破《こわ》れさうな書画骨董の注意と、盆栽の手入で、其れも時には礼の一ツも云はれゝばこそ、何時も料理と同じ様に行届かぬ手抜《てぬか》りを見付出されては叱られて居られた。ですから、私が生れて第一に耳にしたものは、乃ち皺枯《しはが》れた父の口小言、第一に目にしたものは、何時も襷《たすき》を外した事のない母の姿で、無邪気な幼心に、父と云ふものは恐いもの、母と云ふものは痛《いたま》しいものだと云ふ考へが、何より先に浸渡《しみわた》りました。
 私は殆ど父の膝に抱《いだ》かれた事がない。時々は優しい声を作つて私の名を呼ばれた事もあつたですが、猫の様にいぢけて了つた私は恐くて近《ちかづ》き得ないのです。殊に父の食事は前《ぜん》に申す通り、到底子供の口になぞ入れられる種類のものではないので、一度も膳を並べて箸を取つた事もなく、幼年から少年と時の経つに従つて、私は自然と父に対する親愛の情が疎くなるのみか、其の反対に、父なるものは暴悪|無道《ぶだう》な鬼の様に思はれ、其れにつれて、母上は無論私の感ずる程では無かつたかも知れないが、兎《と》に角《かく》、父が憎くさの私の眼だけには、世の中に、何一つ慰みもなく、楽みもなく暮らして居られる様に見へた。
 此う云ふ境遇から此う云ふ先入の感想を得て、私は軈《やが》て中学校に進み、円満な家庭のさまや無邪気な子供の生活を描《うつ》した英語の読本、其れから当時の雑誌や何やらを読んで行くと愛《ラブ》だとか家庭《ホーム》だとか云ふ文字《もんじ》の多く見られる西洋の思想が、実に激しく私の心を突いたです。同時に我が父の口にせられる孔子の教《おしへ》だの武士道だのと云ふものは、人生幸福の敵である、と云ふ極端な反抗の精神が、何時とは無しに堅く胸中に基礎を築き上げて了つた。で、年と共に、鳥渡《ちよつと》した日常の談話にも父とは意見が合はなくなりましたから、中学を出て、高等の専門学校に入学すると共に、私は親元を去つて寄宿舎に這入《はい》り、折々は母を訪問して帰る道すがら、自分は三年の後卒業したなら、父と別れて自分一個の新家庭を造り、母を請じて愉快に食事をして見やう……とよく其様《そんな》事を考へて居ましたが、あゝ人生夢の如しで、私の卒業する年の冬、母上は黄泉《あのよ》に行かれた。
 何でも夜半《よなか》近くから、急に大雪が降出した晩の事で、父は近頃買入れた松の盆栽をば、庭の敷石に出して置いたので、この雪の一夜を其の儘にして置いたなら雪の重さで枝振りが悪くなるからと、下女か誰か
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