死んでしまった今日《きょう》となって見れば、あの人たちはこの世の中に生れて来ても来なくてもつまる処は同じようなものだった。まだしも自分とお豊の生きている間は、あの人たちは両人《ふたり》の記憶の中《うち》に残されているものの、やがて自分たちも死んでしまえばいよいよ何も彼《か》も煙になって跡方《あとかた》もなく消え失《う》せてしまうのだ……。
「兄《にい》さん、実は二、三日|中《うち》に私《わたし》の方からお邪魔に上《あが》ろうと思っていたんだよ。」とお豊が突然話しだした。
 稽古の男は「小稲半兵衛《こいなはんべえ》」をさらった後《のち》同じような「お妻八郎兵衛《つまはちろべえ》」の語出《かたりだ》しを二、三度|繰返《くりかえ》して帰って行ったのである。蘿月は尤《もっと》もらしく坐《すわ》り直《なお》して扇子で軽く膝《ひざ》を叩《たた》いた。
「実はね。」とお豊は同じ言葉を繰返して、「駒込《こまごめ》のお寺が市区改正で取払いになるんだとさ。それでね、死んだお父《とっ》つァんのお墓を谷中《やなか》か染井《そめい》か何処《どこ》かへ移さなくっちゃならないんだってね、四、五日前にお寺からお使が来
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