あった。お豊は渡場《わたしば》の方へ下《お》りかけたけれど、急に恐るる如く踵《くびす》を返して、金竜山下《きんりゅうざんした》の日蔭《ひかげ》になった瓦町《かわらまち》を急いだ。そして通りがかりのなるべく汚《きたな》い車、なるべく意気地《いくじ》のなさそうな車夫《しゃふ》を見付けて恐る恐る、
「車屋さん、小梅《こうめ》まで安くやって下さいな。」といった。
お豊は花見どころの騒ぎではない。もうどうしていいのか分らない。望みをかけた一人息子の長吉は試験に落第してしまったばかりか、もう学校へは行きたくない、学問はいやだといい出した。お豊は途法《とほう》に暮れた結果、兄の蘿月《らげつ》に相談して見るより外《ほか》に仕様がないと思ったのである。
三度目に掛合《かけあ》った老車夫が、やっとの事でお豊の望む賃銀で小梅行きを承知した。吾妻橋《あずまばし》は午後の日光と塵埃《じんあい》の中におびただしい人出《ひとで》である。着飾った若い花見の男女を載《の》せて勢《いきおい》よく走る車の間《あいだ》をば、お豊を載せた老車夫は梶《かじ》を振りながらよたよた歩いて橋を渡るや否や桜花の賑《にぎわ》いを外《よ
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