》に引幕《ひきまく》の一方にさし込む夕陽《ゆうひ》の光が、その進み入る道筋だけ、空中に漂《ただよ》う塵と煙草の煙をばありありと眼に見せる。長吉はこの夕陽の光をば何という事なく悲しく感じながら、折々《おりおり》吹込む外の風が大きな波を打《うた》せる引幕の上を眺めた。引幕には市川《いちかわ》○○丈《じょう》へ、浅草公園|芸妓連中《げいぎれんじゅう》として幾人《いくたり》となく書連《かきつら》ねた芸者の名が読まれた。暫《しばら》くして、
「吉さん、君、あの中で知ってる芸者があるかい。」
「たのむよ。公園は乃公《おいら》たちの縄張中《なわばりうち》だぜ。」吉さんは一種の屈辱を感じたのであろう、嘘《うそ》か誠か、幕の上にかいてある芸者の一人々々の経歴、容貌、性質を限りもなく説明しはじめた。
 拍子木がチョンチョンと二ツ鳴った。幕開《まくあき》の唄《うた》と三味線が聞え引かれた幕が次第に細《こま》かく早める拍子木の律《りつ》につれて片寄せられて行く。大向《おおむこう》から早くも役者の名をよぶ掛け声。たいくつした見物人の話声が一時《いちじ》に止《や》んで、場内は夜の明けたような一種の明るさと一種の活
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