《ばんじ》方寸《ほうすん》の中《うち》にありさ。」
 先刻《さっき》から三人四人と絶えず上って来る見物人で大向《おおむこう》はかなり雑沓《ざっとう》して来た。前の幕から居残っている連中《れんじゅう》には待ちくたびれて手を鳴《なら》すものもある。舞台の奥から拍子木の音が長い間《ま》を置きながら、それでも次第に近く聞えて来る。長吉は窮屈に腰をかけた明り取りの窓から立上る。すると吉さんは、
「まだ、なかなかだ。」と独言《ひとりごと》のようにいって、「長さん。あれァ廻りの拍子木といって道具立《どうぐだて》の出来上ッたって事を、役者の部屋の方へ知らせる合図なんだ。開《あ》くまでにゃアまだ、なかなかよ。」
 悠然として巻煙草《まきたばこ》を吸い初める。長吉は「そうか」と感服したらしく返事をしながら、しかし立上ったままに立見の鉄格子から舞台の方を眺めた。花道から平土間《ひらどま》の桝《ます》の間《あいだ》をば吉さんの如く廻りの拍子木の何たるかを知らない見物人が、すぐにも幕があくのかと思って、出歩いていた外《そと》から各自の席に戻ろうと右方左方へと混雑している。横手の桟敷裏《さじきうら》から斜《ななめ
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