》のあとのある古びた壁なぞ、八畳の座敷一体をいかにも薄暗く照《てら》している。古ぼけた葭戸《よしど》を立てた縁側の外《そと》には小庭《こにわ》があるのやらないのやら分らぬほどな闇《やみ》の中に軒の風鈴《ふうりん》が淋《さび》しく鳴り虫が静《しずか》に鳴いている。師匠のお豊《とよ》は縁日ものの植木鉢を並べ、不動尊《ふどうそん》の掛物をかけた床《とこ》の間《ま》を後《うしろ》にしてべったり坐《すわ》った膝《ひざ》の上に三味線《しゃみせん》をかかえ、樫《かし》の撥《ばち》で時々前髪のあたりをかきながら、掛声をかけては弾くと、稽古本《けいこぼん》を広げた桐《きり》の小机を中にして此方《こなた》には三十前後の商人らしい男が中音《ちゅうおん》で、「そりや何をいはしやんす、今さら兄よ妹《いもうと》といふにいはれぬ恋中《こいなか》は……。」と「小稲半兵衛《こいなはんべえ》」の道行《みちゆき》を語る。
蘿月は稽古のすむまで縁近《えんぢか》くに坐って、扇子《せんす》をぱちくりさせながら、まだ冷酒《ひやざけ》のすっかり醒《さ》めきらぬ処から、時々は我知らず口の中で稽古の男と一しょに唄《うた》ったが、時々は
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