は落したものを捜《さが》す体《てい》で何かを取り上げると、突然前とは全く違った態度になって、極めて明瞭に浄瑠璃外題《じょうるりげだい》「梅柳中宵月《うめやなぎなかもよいづき》」、勤めまする役人……と読みはじめる。それを待構えて彼方《かなた》此方《こなた》から見物人が声をかけた。再び軽い拍子木の音を合図に、黒衣《くろご》の男が右手の隅に立てた書割の一部を引取ると裃《かみしも》を着た浄瑠璃語《じょうるりかたり》三人、三味線弾《しゃみせんひき》二人が、窮屈そうに狭い台の上に並んでいて、直《す》ぐに弾出《ひきだ》す三味線からつづいて太夫《たゆう》が声を合《あわ》してかたり出した。長吉はこの種の音楽にはいつも興味を以て聞き馴《な》れているので、場内の何処《どこ》かで泣き出す赤児《あかご》の声とそれを叱咤《しった》する見物人の声に妨げられながら、しかも明《あきら》かに語る文句と三味線の手までを聴《き》き分ける。
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※[#歌記号、1−3−28]朧夜《おぼろよ》に星の影さへ二ツ三ツ、四ツか五ツか鐘の音《ね》も、もしや我身《わがみ》の追手《おって》かと……
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