は一ぱいに詰《つま》っている見物人の頭に遮《さえぎ》られて非常に暗く、狭苦しいので、猿のように人のつかまっている前側の鉄棒から、向うに見える劇場の内部は天井ばかりがいかにも広々と見え、舞台は色づき濁った空気のためにかえって小さく甚《はなはだ》遠く見えた。舞台はチョンと打った拍子木の音に今丁度廻って止《とま》った処である。極めて一直線な石垣を見せた台の下に汚れた水色の布が敷いてあって、後《うしろ》を限る書割《かきわり》には小《ちいさ》く大名屋敷《だいみょうやしき》の練塀《ねりべい》を描《えが》き、その上の空一面をば無理にも夜だと思わせるように隙間《すきま》もなく真黒《まっくろ》に塗りたててある。長吉は観劇に対するこれまでの経験で「夜」と「川端《かわばた》」という事から、きっと殺《ころ》し場《ば》に違いないと幼い好奇心から丈伸《せの》びをして首を伸《のば》すと、果《はた》せるかな、絶えざる低い大太鼓《おおだいこ》の音に例の如く板をバタバタ叩《たた》く音が聞えて、左手の辻番小屋の蔭《かげ》から仲間《ちゅうげん》と蓙《ござ》を抱えた女とが大きな声で争いながら出て来る。見物人が笑った。舞台の人物
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