えて見ると、人は成長するに従っていかに幸福を失って行くものかを明《あきら》かに経験した。まだ学校へも行かぬ子供の時には朝寒ければゆっくりと寝たいだけ寝ていられたばかりでなく、身体《からだ》の方もまたそれほどに寒さを感ずることが烈《はげ》しくなかった。寒い風や雨の日にはかえって面白く飛び歩いたものである。ああそれが今の身になっては、朝早く今戸《いまど》の橋の白い霜を踏むのがいかにも辛《つら》くまた昼過ぎにはいつも木枯《こがらし》の騒ぐ待乳山《まつちやま》の老樹に、早くも傾く夕日の色がいかにも悲しく見えてならない。これから先の一年一年は自分の身にいかなる新しい苦痛を授けるのであろう。長吉は今年の十二月ほど日数《ひかず》の早くたつのを悲しく思った事はない。観音《かんのん》の境内《けいだい》にはもう年《とし》の市《いち》が立った。母親のもとへとお歳暮のしるしにお弟子が持って来る砂糖袋や鰹節《かつぶし》なぞがそろそろ床《とこ》の間《ま》へ並び出した。学校の学期試験は昨日《きのう》すんで、一方《ひとかた》ならぬその不成績に対する教師の注意書《ちゅういがき》が郵便で母親の手許に送り届けられた。
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