夕風を孕《はら》んだ帆かけ船が頻《しき》りに動いて行く。水の面《おもて》の黄昏《たそが》れるにつれて鴎《かもめ》の羽の色が際立《きわだ》って白く見える。宗匠はこの景色を見ると時候はちがうけれど酒なくて何の己《おの》れが桜かなと急に一杯傾けたくなったのである。
休茶屋の女房《にょうぼ》が縁《ふち》の厚い底の上ったコップについで出す冷酒《ひやざけ》を、蘿月はぐいと飲干《のみほ》してそのまま竹屋《たけや》の渡船《わたしぶね》に乗った。丁度河の中ほどへ来た頃から舟のゆれるにつれて冷酒がおいおいにきいて来る。葉桜の上に輝きそめた夕月の光がいかにも涼しい。滑《なめらか》な満潮の水は「お前どこ行く」と流行唄《はやりうた》にもあるようにいかにも投遣《なげや》った風《ふう》に心持よく流れている。宗匠は目をつぶって独《ひとり》で鼻唄をうたった。
向河岸《むこうがし》へつくと急に思出して近所の菓子屋を探して土産《みやげ》を買い今戸橋《いまどばし》を渡って真直《まっすぐ》な道をば自分ばかりは足許《あしもと》のたしかなつもりで、実は大分ふらふらしながら歩いて行った。
そこ此処《ここ》に二、三軒|今戸焼《い
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