い女房ばかりなので、落胆《らくたん》したようにそのまま歩調《あゆみ》を早める。そして売地や貸家の札《ふだ》を見て過《すぎ》る度々《たびたび》、何《なん》ともつかずその胸算用《むなざんよう》をしながら自分も懐手《ふところで》で大儲《おおもうけ》がして見たいと思う。しかしまた田圃づたいに歩いて行く中水田《うちみずた》のところどころに蓮《はす》の花の見事に咲き乱れたさまを眺め青々した稲の葉に夕風のそよぐ響をきけば、さすがは宗匠だけに、銭勘定《ぜにかんじょう》の事よりも記憶に散在している古人の句をば実に巧《うま》いものだと思返《おもいかえ》すのであった。
 土手へ上《あが》った時には葉桜のかげは早《は》や小暗《おぐら》く水を隔てた人家には灯《ひ》が見えた。吹きはらう河風《かわかぜ》に桜の病葉《わくらば》がはらはら散る。蘿月は休まず歩きつづけた暑さにほっと息をつき、ひろげた胸をば扇子《せんす》であおいだが、まだ店をしまわずにいる休茶屋《やすみぢゃや》を見付けて慌忙《あわて》て立寄り、「おかみさん、冷《ひや》で一杯。」と腰を下《おろ》した。正面に待乳山《まつちやま》を見渡す隅田川《すみだがわ》には
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