の音さえ聞えなかった。けれども長吉には誰にも咎《とが》められずに恋人の住む家《うち》の前を通ったというそれだけの事が、殆《ほと》んど破天荒《はてんこう》の冒険を敢《あえ》てしたような満足を感じさせたので、これまで歩きぬいた身の疲労と苦痛とを長吉は遂《つい》に後悔しなかった。

      四

 その週間の残りの日数《ひかず》だけはどうやらこうやら、長吉は学校へ通ったが、日曜日一日を過《すご》すとその翌朝《あくるあさ》は電車に乗って上野《うえの》まで来ながらふいと下《お》りてしまった。教師に差出すべき代数の宿題を一つもやって置かなかった。英語と漢文の下読《したよみ》をもして置かなかった。それのみならず今日はまた、凡《およ》そ世の中で何よりも嫌いな何よりも恐しい機械体操のある事を思い出したからである。長吉には鉄棒から逆《さかさ》にぶらさがったり、人の丈《たけ》より高い棚の上から飛下りるような事は、いかに軍曹上《ぐんそうあが》りの教師から強《し》いられても全級の生徒から一斉《いっせい》に笑われても到底出来|得《う》べきことではない。何によらず体育の遊戯にかけては、長吉はどうしても他の生徒一
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