《つりし》の一人が握飯《にぎりめし》を食いはじめたのを見て、同じように弁当箱を開いた。開いたけれども何だか気まりが悪くて、誰か見ていやしないかときょろきょろ四辺《あたり》を見廻した。幸い午近《ひるぢか》くのことで見渡す川岸に人の往来は杜絶《とだ》えている。長吉は出来るだけ早く飯《めし》でも菜《さい》でも皆《みん》な鵜呑《うの》みにしてしまった。釣師はいずれも木像のように黙っているし、甘酒屋の爺は居眠りしている。午過《ひるすぎ》の川端はますます静《しずか》になって犬さえ歩いて来ない処から、さすがの長吉も自分は何故《なぜ》こんなに気まりを悪がるのであろう臆病《おくびょう》なのであろうと我ながら可笑《おか》しい気にもなった。
両国橋《りょうごくばし》と新大橋《しんおおはし》との間を一廻《ひとまわり》した後《のち》、長吉はいよいよ浅草《あさくさ》の方へ帰ろうと決心するにつけ、「もしや」という一念にひかされて再び葭町の路地口に立寄って見た。すると午前《ひるまえ》ほどには人通りがないのに先《ま》ず安心して、おそるおそる松葉屋の前を通って見たが、家《うち》の中は外から見ると非常に暗く、人の声三味線
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