座《めいじざ》の屋根を見てやがてやや広い往来へ出た時、その遠い道のはずれに河蒸汽船《かわじょうきせん》の汽笛の音の聞えるのに、初めて自分の位置と町の方角とを覚《さと》った。同時に非常な疲労《つかれ》を感じた。制帽を冠《かぶ》った額《ひたい》のみならず汗は袴《はかま》をはいた帯のまわりまでしみ出していた。しかしもう一瞬間とても休む気にはならない。長吉は月の夜《よ》に連れられて来た路地口《ろじぐち》をば、これはまた一層の苦心、一層の懸念《けねん》、一層の疲労を以って、やっとの事で見出《みいだ》し得たのである。
 片側《かたかわ》に朝日がさし込んでいるので路地の内《うち》は突当りまで見透《みとお》された。格子戸《こうしど》づくりの小《ちいさ》い家《うち》ばかりでない。昼間見ると意外に屋根の高い倉もある。忍返《しのびがえ》しをつけた板塀《いたべい》もある。その上から松の枝も見える。石灰《いしばい》の散った便所の掃除口も見える。塵芥箱《ごみばこ》の並んだ処もある。その辺《へん》に猫がうろうろしている。人通りは案外に烈《はげ》しい。極めて狭い溝板《どぶいた》の上を通行の人は互《たがい》に身を斜めに
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