ら、空一面に蔽《おお》い冠《かぶ》さる。すると気候は恐しく蒸暑《むしあつ》くなって来て、自然と浸《し》み出る脂汗《あぶらあせ》が不愉快に人の肌をねばねばさせるが、しかしまた、そういう時にはきまって、その強弱とその方向の定まらない風が突然に吹き起って、雨もまた降っては止《や》み、止んではまた降りつづく事がある。この風やこの雨には一種特別の底深い力が含まれていて、寺の樹木や、河岸《かわぎし》の葦《あし》の葉や、場末につづく貧しい家の板屋根に、春や夏には決して聞かれない音響を伝える。日が恐しく早く暮れてしまうだけ、長い夜《よ》はすぐに寂々《しんしん》と更《ふ》け渡って来て、夏ならば夕涼みの下駄の音に遮《さえぎ》られてよくは聞えない八時か九時の時の鐘があたりをまるで十二時の如く静《しずか》にしてしまう。蟋蟀《こおろぎ》の声はいそがしい。燈火《ともしび》の色はいやに澄む。秋。ああ秋だ。長吉は初めて秋というものはなるほどいやなものだ。実に淋《さび》しくって堪《たま》らないものだと身にしみじみ感じた。
 学校はもう昨日《きのう》から始っている。朝早く母親の用意してくれる弁当箱を書物と一所《いっしょ》
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