き》にゴム靴をはいた請負師《うけおいし》らしい男の通った後《あと》、暫《しばら》くしてから、蝙蝠傘《こうもりがさ》と小包を提げた貧し気《げ》な女房が日和下駄《ひよりげた》で色気もなく砂を蹴立《けた》てて大股《おおまた》に歩いて行った。もういくら待っても人通りはない。長吉は詮方《せんかた》なく疲れた眼を河の方に移した。河面《かわづら》は先刻《さっき》よりも一体に明《あかる》くなり気味悪い雲の峯は影もなく消えている。長吉はその時|長命寺辺《ちょうめいじへん》の堤の上の木立から、他分《たぶん》旧暦七月の満月であろう、赤味を帯びた大きな月の昇りかけているのを認めた。空は鏡のように明《あかる》いのでそれを遮《さえぎ》る堤と木立はますます黒く、星は宵の明星の唯《たっ》た一つ見えるばかりでその他《た》は尽《ことごと》く余りに明い空の光に掻き消され、横ざまに長く棚曳《たなび》く雲のちぎれが銀色に透通《すきとお》って輝いている。見る見る中《うち》満月が木立を離れるに従い河岸《かわぎし》の夜露をあびた瓦《かわら》屋根や、水に湿《ぬ》れた棒杭《ぼうぐい》、満潮に流れ寄る石垣下の藻草《もぐさ》のちぎれ、船の横
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