やりして、或《ある》時は今戸橋《いまどばし》の欄干《らんかん》に凭《もた》れたり、或時は岸の石垣から渡場《わたしば》の桟橋《さんばし》へ下りて見たりして、夕日から黄昏、黄昏から夜になる河の景色を眺めていた。今夜暗くなって人の顔がよくは見えない時分になったら今戸橋の上でお糸と逢《あ》う約束をしたからである。しかし丁度日曜日に当って夜学校を口実にも出来ない処から夕飯《ゆうめし》を済《すま》すが否やまだ日の落ちぬ中《うち》ふいと家《うち》を出てしまった。一しきり渡場へ急ぐ人の往来《ゆきき》も今では殆《ほとん》ど絶え、橋の下に夜泊《よどま》りする荷船の燈火《ともしび》が慶養寺《けいようじ》の高い木立を倒《さかさ》に映した山谷堀《さんやぼり》の水に美しく流れた。門口《かどぐち》に柳のある新しい二階家からは三味線が聞えて、水に添う低い小家《こいえ》の格子戸外《こうしどそと》には裸体《はだか》の亭主が涼みに出はじめた。長吉はもう来る時分であろうと思って一心《いっしん》に橋向うを眺めた。
最初に橋を渡って来た人影は黒い麻の僧衣《ころも》を着た坊主であった。つづいて尻端折《しりはしおり》の股引《ももひ
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