》つ都市の一隅に当ってかつては時鳥《ほととぎす》鳴き蘆《あし》の葉ささやき白魚《しらうお》閃《ひらめ》き桜花《おうか》雪と散りたる美しき流《ながれ》のあった事をも忘れ果ててしまう時、せめてはわが小さきこの著作をして、傷ましき時代が産みたる薄倖《はっこう》の詩人がいにしえの名所を弔《とむら》う最後の中《うち》の最後の声たらしめよ。
  大正二|癸丑《みずのとうし》の年春三月小説『すみだ川』幸《さいわい》に第五版を発行すると聞きて
[#地から3字上げ]荷風小史
[#改ページ]

   すみだ川序

 わたくしの友人|佐藤春夫《さとうはるお》君を介して小山《おやま》書店の主人はわたくしの旧著『すみだ川』の限定単行本を上梓《じょうし》したいことを告げられた。今日《こんにち》の出版界はむしろ新刊図書の過多なるに苦しんでいる。わたくしは今更二十四、五年前の拙作小説を復刻する必要があるや否やを知らない。しかしわたくしは小山書店の主人がわたくしの如き老朽文士の旧作を忘れずに記憶しておられたその好意については深く感謝しなければならない。依《よっ》てその勧められるがままに旧版を校訂し併《あわ》せて執筆当初の事情と旧版の種類とをここに識《しる》すことにした。
 わたくしが初《はじめ》て小説『すみだ川』に筆をつけたのは西洋から帰って丁度満一年を過《すご》した時である。即ち明治四十二年の秋八月のはじめに稿を起《おこ》し十月の末に書き終るが否や亡友|井上唖唖《いのうえああ》君に校閲を乞い添刪《てんさん》をなした後《のち》草稿を雑誌『新小説』編輯者《へんしゅうしゃ》の許《もと》に送った。当時『新小説』の編輯主任は後藤宙外《ごとうちゅうがい》氏であったかあるいは鈴木三重吉《すずきみえきち》氏であったか明《あきらか》に記憶していない。わたくしの草稿はその年十二月発行の『新小説』第十四年第十二巻のはじめに載せられた。わたくしはその時|馬歯《ばし》三十二歳であった。本書に掲載した当時の『新小説』「すみだ川」の口絵は斎藤昌三氏の所蔵本を借りて写真版となしたものである。ここに斎藤氏の好意を謝す。
 小説『すみだ川』に描写せられた人物及び市街の光景は明治三十五、六年の時代である。新橋《しんばし》上野《うえの》浅草《あさくさ》の間を往復《おうふく》していた鉄道馬車がそのまま電車に変ったころである。わたくしは丁度その頃《ころ》に東京を去り六年ぶりに帰ってきた。東京市中の街路は到《いた》る処旧観を失っていた。以前木造であった永代《えいたい》と両国《りょうごく》との二橋は鉄のつり橋にかえられたのみならず橋の位置も変りまたその両岸の街路も著しく変っていた。明治四十一、二年のころ隅田川《すみだがわ》に架せられた橋梁《きょうりょう》の中でむかしのままに木づくりの姿をとどめたものは新大橋《しんおおはし》と千住《せんじゅ》の大橋ばかりであった。わたくしは洋行以前二十四、五歳の頃に見歩いた東京の町々とその時代の生活とを言知れずなつかしく思返して、この心持を表《あらわ》すために一篇の小説をつくろうと思立った。この事はつぶさに旧版『すみだ川』第五版の序に述べてある。
 旧版発行の次第は左の如くである。
 明治四十四年三月|籾山《もみやま》書店は『すみだ川』の外《ほか》にその頃わたくしが『三田《みた》文学』に掲げた数篇の短篇小説|及《および》戯曲を集め一巻となして刊行した。当時籾山書店は祝橋向《いわいばしむこう》の河岸通《かしどおり》から築地《つきじ》の電車通へ出ようとする静《しずか》な横町《よこちょう》の南側(築地二丁目十五番地)にあって専《もっぱ》ら俳諧《はいかい》の書巻を刊行していたのであるが拙著『すみだ川』の出版を手初めに以後六、七年の間|盛《さかん》に小説及び文芸の書類を刊行した。書店の主人みずからもまた短篇小説集『遅日』を著《あらわ》した。谷崎《たにざき》君の名著『刺青《しせい》』が始めて単行本となって世に公《おおやけ》にせられたのも籾山書店からであった。森鴎外《もりおうがい》先生が『スバル』その他の雑誌に寄せられた名著の大半もまた籾山書店から刊行せられた。
 大正五年四月籾山書店は旧版『すみだ川』を改刻しこれを縮刷本《しゅくさつぼん》『荷風|叢書《そうしょ》』の第五巻となし装幀《そうてい》の意匠を橋口五葉《はしぐちごよう》氏に依頼した。
 大正九年五月|春陽堂《しゅんようどう》が『荷風全集』第四巻を編輯刊行する時『すみだ川』を巻頭に掲げた。この際わたくしは旧著の辞句を訂正した。
 大正十年三月春陽堂が拙作小説『歓楽《かんらく》』を巻首に置きこれを表題にして単行本を出した時再び『すみだ川』をその中に加えた。
 昭和二年九月|改造社《かいぞうしゃ》が『現代日本文学全集』を編輯した時その
前へ 次へ
全24ページ中23ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
永井 荷風 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング