とその心までが遠《とおざ》かって行って、折角の幼馴染《おさななじみ》も遂にはあか[#「あか」に傍点]の他人に等しいものになるであろう。よし時々に手紙の取りやりはして見ても感情の一致して行かない是非《ぜひ》なさを、こまごまと恨んでいる。それにつけて、役者か芸人になりたいと思定《おもいさだ》めたが、その望みも遂《つい》に遂《と》げられず、空しく床屋《とこや》の吉《きち》さんの幸福を羨《うらや》みながら、毎日ぼんやりと目的のない時間を送っているつまらなさ、今は自殺する勇気もないから病気にでもなって死ねばよいと書いてある。
 蘿月は何というわけもなく、長吉が出水《でみず》の中を歩いて病気になったのは故意《こい》にした事であって、全快する望《のぞみ》はもう絶え果てているような実に果敢《はか》ない感《かんじ》に打たれた。自分は何故《なぜ》あの時あのような心にもない意見をして長吉の望みを妨《さまた》げたのかと後悔の念に迫《せ》められた。蘿月はもう一度思うともなく、女に迷って親の家を追出された若い時分の事を回想した。そして自分はどうしても長吉の味方にならねばならぬ。長吉を役者にしてお糸と添わしてやらねば、親代々の家《うち》を潰《つぶ》してこれまでに浮世の苦労をしたかいがない。通人《つうじん》を以て自任《じにん》する松風庵蘿月宗匠《しょうふうあんらげつそうしょう》の名に愧《はじ》ると思った。
 鼠がまた突如《だしぬけ》に天井裏を走る。風はまだ吹き止まない。釣《つるし》ランプの火は絶えず動揺《ゆらめ》く。蘿月は色の白い眼のぱっちりした面長《おもなが》の長吉と、円顔の口元に愛嬌《あいきょう》のある眼尻の上ったお糸との、若い美しい二人の姿をば、人情本の作者が口絵の意匠でも考えるように、幾度《いくたび》か並べて心の中《うち》に描きだした。そして、どんな熱病に取付かれてもきっと死んでくれるな。長吉、安心しろ。乃公《おれ》がついているんだぞと心に叫んだ。
[#地から2字上げ]明治四十二年八月―十月作
[#改ページ]

   第五版すみだ川之序

小説『すみだ川』を草《そう》したのはもう四年ほど前の事である。外国から帰って来たその当座一、二年の間はなおかの国の習慣が抜けないために、毎日の午後といえば必ず愛読の書をふところにして散歩に出掛けるのを常とした。しかしわが生れたる東京の市街は既に詩をよろこぶ遊民の散歩場《さんぽじょう》ではなくて行く処としてこれ戦乱後新興の時代の修羅場《しゅらじょう》たらざるはない。その中《なか》にもなおわずかにわが曲りし杖《つえ》を留《とど》め、疲れたる歩みを休めさせた処はやはりいにしえの唄《うた》に残った隅田川《すみだがわ》の両岸であった。隅田川はその当時|目《ま》のあたり眺める破損の実景と共に、子供の折に見覚えた朧《おぼ》ろなる過去の景色の再来と、子供の折から聞伝《ききつた》えていたさまざまの伝説の美とを合せて、いい知れぬ音楽の中に自分を投込んだのである。既に全く廃滅に帰せんとしている昔の名所の名残ほど自分の情緒に対して一致調和を示すものはない。自分はわが目に映じたる荒廃の風景とわが心を傷《いた》むる感激の情とを把《と》ってここに何物かを創作せんと企てた。これが小説『すみだ川』である。さればこの小説一篇は隅田川という荒廃の風景が作者の視覚を動《うごか》したる象形的幻想を主として構成せられた写実的外面の芸術であると共にまたこの一篇は絶えず荒廃の美を追究せんとする作者の止《や》みがたき主観的傾向が、隅田川なる風景によってその抒情詩的本能を外発さすべき象徴を捜《もと》めた理想的内面の芸術ともいい得よう。さればこの小説中に現わされた幾多の叙景《じょけい》は篇中の人物と同じく、否《いな》時としては人物より以上に重要なる分子として取扱われている。それと共に篇中の人物は実在のモデルによって活《い》ける人間を描写したのではなくて、丁度アンリイ、ド、レニエエがかの『賢き一青年の休暇』に現《あらわ》したる人物と斉《ひと》しく、隅田川の風景によって偶然にもわが記憶の中に蘇《よみがえ》り来《きた》った遠い過去の人物の正《まさ》に消え失《う》せんとするその面影《おもかげ》を捉《とら》えたに過ぎない。作者はその少年時代によく見馴《みな》れたこれら人物に対していかなる愛情と懐《なつか》しさとを持っているかは言うを俟《ま》たぬ。今年花また開くの好時節に際し都下の或《ある》新聞紙は※[#「さんずい+(壥−土へん−厂)」、第3水準1−87−25]上《ぼくじょう》の桜樹《おうじゅ》漸《ようや》く枯死《こし》するもの多きを説く。ああ新しき時代は遂に全く破壊の事業を完成し得たのである。さらばやがてはまた幾年の後に及んで、いそがしき世は製造所の煙筒《えんとう》叢立《むらだ
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