死んでしまった今日《きょう》となって見れば、あの人たちはこの世の中に生れて来ても来なくてもつまる処は同じようなものだった。まだしも自分とお豊の生きている間は、あの人たちは両人《ふたり》の記憶の中《うち》に残されているものの、やがて自分たちも死んでしまえばいよいよ何も彼《か》も煙になって跡方《あとかた》もなく消え失《う》せてしまうのだ……。
「兄《にい》さん、実は二、三日|中《うち》に私《わたし》の方からお邪魔に上《あが》ろうと思っていたんだよ。」とお豊が突然話しだした。
 稽古の男は「小稲半兵衛《こいなはんべえ》」をさらった後《のち》同じような「お妻八郎兵衛《つまはちろべえ》」の語出《かたりだ》しを二、三度|繰返《くりかえ》して帰って行ったのである。蘿月は尤《もっと》もらしく坐《すわ》り直《なお》して扇子で軽く膝《ひざ》を叩《たた》いた。
「実はね。」とお豊は同じ言葉を繰返して、「駒込《こまごめ》のお寺が市区改正で取払いになるんだとさ。それでね、死んだお父《とっ》つァんのお墓を谷中《やなか》か染井《そめい》か何処《どこ》かへ移さなくっちゃならないんだってね、四、五日前にお寺からお使が来たから、どうしたものかと、その相談に行こうと思ってたのさ。」
「なるほど。」と蘿月は頷付《うなず》いて、「そういう事なら打捨《うっちゃ》っても置けまい。もう何年になるかな、親爺《おやじ》が死んでから……。」
 首を傾《かし》げて考えたが、お豊の方は着々話しを進めて染井の墓地の地代《じだい》が一坪《ひとつぼ》いくら、寺への心付けがどうのこうのと、それについては女の身よりも男の蘿月に万事を引受けて取計らってもらいたいというのであった。
 蘿月はもと小石川表町《こいしかわおもてまち》の相模屋《さがみや》という質屋の後取息子《あととりむすこ》であったが勘当の末《すえ》若隠居の身となった。頑固な父が世を去ってからは妹お豊を妻にした店の番頭が正直に相模屋の商売をつづけていた。ところが御維新《ごいっしん》この方《かた》時勢の変遷で次第に家運の傾いて来た折も折火事にあって質屋はそれなり潰《つぶ》れてしまった。で、風流三昧《ふうりゅうざんまい》の蘿月はやむをえず俳諧《はいかい》で世を渡るようになり、お豊はその後《ご》亭主に死別れた不幸つづきに昔名を取った遊芸を幸い常磐津《ときわず》の師匠で生計《くらし》を立てるようになった。お豊には今年十八になる男の子が一人ある。零落《れいらく》した女親がこの世の楽しみというのは全くこの一人息子|長吉《ちょうきち》の出世を見ようという事ばかりで、商人はいつ失敗するか分らないという経験から、お豊は三度の飯を二度にしても、行く行くはわが児《こ》を大学校に入れて立派な月給取りにせねばならぬと思っている。
 蘿月|宗匠《そうしょう》は冷えた茶を飲干《のみほ》しながら、「長吉はどうしました。」
 するとお豊はもう得意らしく、「学校は今夏休みですがね、遊ばしといちゃいけないと思って本郷《ほんごう》まで夜学にやります。」
「じゃ帰りは晩《おそ》いね。」
「ええ。いつでも十時過ぎますよ。電車はありますがね、随分|遠路《とおみち》ですからね。」
「吾輩《こちとら》とは違って今時の若いものは感心だね。」宗匠は言葉を切って、「中学校だっけね、乃公《おれ》は子供を持った事がねえから当節《とうせつ》の学校の事はちっとも分らない。大学校まで行くにゃまだよほどかかるのかい。」
「来年卒業してから試験を受けるんでさアね。大学校へ行く前に、もう一ツ……大きな学校があるんです。」お豊は何も彼《か》も一口《ひとくち》に説明してやりたいと心ばかりは急《あせ》っても、やはり時勢に疎《うと》い女の事で忽《たちま》ちいい淀《よど》んでしまった。
「たいした経費《かかり》だろうね。」
「ええそれァ、大抵じゃありませんよ。何しろ、あなた、月謝ばかりが毎月《まいげつ》一円、本代だって試験の度々《たんび》に二、三円じゃききませんしね、それに夏冬ともに洋服を着るんでしょう、靴だって年に二足は穿《は》いてしまいますよ。」
 お豊は調子づいて苦心のほどを一倍強く見せようためか声に力を入れて話したが、蘿月はその時、それほどにまで無理をするなら、何も大学校へ入れないでも、長吉にはもっと身分相応な立身の途《みち》がありそうなものだという気がした。しかし口へ出していうほどの事でもないので、何か話題の変化をと望む矢先《やさき》へ、自然に思い出されたのは長告が子供の時分の遊び友達でお糸《いと》といった煎餅屋《せんべいや》の娘の事である。蘿月はその頃お豊の家を訪ねた時にはきまって甥《おい》の長吉とお糸をつれては奥山《おくやま》や佐竹《さたけ》ッ原《ぱら》の見世物《みせもの》を見に行ったのだ。
「長吉が十
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