八じゃ、あの娘《こ》はもう立派な姉《ねえ》さんだろう。やはり稽古に来るかい。」
「家《うち》へは来ませんがね、この先の杵屋《きねや》さんにゃ毎日|通《かよ》ってますよ。もう直《じ》き葭町《よしちょう》へ出るんだっていいますがね……。」とお豊は何か考えるらしく語《ことば》を切った。
「葭町へ出るのか。そいつア豪儀《ごうぎ》だ。子供の時からちょいと口のききようのませた、好《い》い娘《こ》だったよ。今夜にでも遊びに来りゃアいいに。ねえ、お豊。」と宗匠は急に元気づいたが、お豊はポンと長煙管《ながぎせる》をはたいて、
「以前とちがって、長吉も今が勉強ざかりだしね……。」
「ははははは。間違いでもあっちゃならないというのかね。尤《もっと》もだよ。この道ばかりは全く油断がならないからな。」
「ほんとさ。お前さん。」お豊は首を長く延《のば》して、「私の僻目《ひがめ》かも知れないが、実はどうも長吉の様子が心配でならないのさ。」
「だから、いわない事《こ》ッちゃない。」と蘿月は軽く握り拳《こぶし》で膝頭《ひざがしら》をたたいた。お豊は長吉とお糸のことが唯《ただ》何《なん》となしに心配でならない。というのは、お糸が長唄《ながうた》の稽古帰りに毎朝用もないのにきっと立寄って見る、それをば長吉は必ず待っている様子でその時間|頃《ごろ》には一足《ひとあし》だって窓の傍《そば》を去らない。それのみならず、いつぞやお糸が病気で十日ほども寝ていた時には、長吉は外目《よそめ》も可笑《おか》しいほどにぼんやりしていた事などを息もつかずに語りつづけた。
 次の間《ま》の時計が九時を打出した時突然|格子戸《こうしど》ががらりと明いた。その明けようでお豊はすぐに長吉の帰って来た事を知り急に話を途切《とぎら》しその方に振返りながら、
「大変早いようだね、今夜は。」
「先生が病気で一時間早くひけたんだ。」
「小梅《こうめ》の伯父さんがおいでだよ。」
 返事は聞えなかったが、次の間《ま》に包《つつみ》を投出す音がして、直様《すぐさま》長吉は温順《おとな》しそうな弱そうな色の白い顔を襖《ふすま》の間から見せた。

      二

 残暑の夕日が一《ひと》しきり夏の盛《さかり》よりも烈《はげ》しく、ひろびろした河面《かわづら》一帯に燃え立ち、殊更《ことさら》に大学の艇庫《ていこ》の真白《まっしろ》なペンキ塗の板目《はめ》に反映していたが、忽《たちま》ち燈《ともしび》の光の消えて行くようにあたりは全体に薄暗く灰色に変色して来て、満ち来る夕汐《ゆうしお》の上を滑って行く荷船《にぶね》の帆のみが真白く際立《きわだ》った。と見る間《ま》もなく初秋《しょしゅう》の黄昏《たそがれ》は幕の下《おり》るように早く夜に変った。流れる水がいやに眩《まぶ》しくきらきら光り出して、渡船《わたしぶね》に乗っている人の形をくっきりと墨絵《すみえ》のように黒く染め出した。堤の上に長く横《よこた》わる葉桜の木立《こだち》は此方《こなた》の岸から望めば恐しいほど真暗《まっくら》になり、一時《いちじ》は面白いように引きつづいて動いていた荷船はいつの間にか一艘《いっそう》残らず上流の方《ほう》に消えてしまって、釣《つり》の帰りらしい小舟がところどころ木《こ》の葉《は》のように浮いているばかり、見渡す隅田川《すみだがわ》は再びひろびろとしたばかりか静《しずか》に淋《さび》しくなった。遥か川上《かわかみ》の空のはずれに夏の名残を示す雲の峰が立っていて細い稲妻が絶間《たえま》なく閃《ひら》めいては消える。
 長吉は先刻《さっき》から一人ぼんやりして、或《ある》時は今戸橋《いまどばし》の欄干《らんかん》に凭《もた》れたり、或時は岸の石垣から渡場《わたしば》の桟橋《さんばし》へ下りて見たりして、夕日から黄昏、黄昏から夜になる河の景色を眺めていた。今夜暗くなって人の顔がよくは見えない時分になったら今戸橋の上でお糸と逢《あ》う約束をしたからである。しかし丁度日曜日に当って夜学校を口実にも出来ない処から夕飯《ゆうめし》を済《すま》すが否やまだ日の落ちぬ中《うち》ふいと家《うち》を出てしまった。一しきり渡場へ急ぐ人の往来《ゆきき》も今では殆《ほとん》ど絶え、橋の下に夜泊《よどま》りする荷船の燈火《ともしび》が慶養寺《けいようじ》の高い木立を倒《さかさ》に映した山谷堀《さんやぼり》の水に美しく流れた。門口《かどぐち》に柳のある新しい二階家からは三味線が聞えて、水に添う低い小家《こいえ》の格子戸外《こうしどそと》には裸体《はだか》の亭主が涼みに出はじめた。長吉はもう来る時分であろうと思って一心《いっしん》に橋向うを眺めた。
 最初に橋を渡って来た人影は黒い麻の僧衣《ころも》を着た坊主であった。つづいて尻端折《しりはしおり》の股引《ももひ
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